槇原敬之

 

youtu.be

マッキー、最近全然聞いていなかったんです。爆発的に売れていた90年代は結構好きだったんですけど、例の事件があってから、私は薬も同性愛も特に拒否反応はないので、まあ、薬に拒否反応がないというとヤバい奴みたいですけど、薬をやったから強制終了、みたいには考えないという意味なんですが。

ただ、あれ以来、なんというか、マッキーは見ちゃいけないような気がしてました。マッキーが見られたくないんじゃないか、みたいに思って。変かもしれないですけど。堂本兄弟に出てるのとか見ても、なんか、心から楽しんでるように見えなくて。すごい気を遣ってるように見えたんです。だから見てると気が重くなって、自然と見なくなった。曲も、あれ以降あまり好きなものがなかったし。

ただ、最近「今日、会社休みます」で「FALL」を聞いて、ひさびさに好きな感じの曲だな〜、昔を思い出すな〜と思って、そこからまた、ちょっと聞くようになりました。そしてお得意のようつべ巡りでここ数年の曲を聞いていった時に、特に衝撃を受けたのが上に貼り付けた「軒下のモンスター」。

歌詞の内容を言っちゃうと、田舎に引っ越してきたありえないくらい都会的な空気をまとった「君」に許されない恋をして苦しんでしまう「僕」の歌です。その都会的な人というのが、「彼女もできない」とか描写されてるので、やっぱ男性なんだろうなと思うんです。

ネットでは「槇原敬之カミングアウトの曲」と言われてます。

私はリアルタイムであの噂を聞いてから、たぶんマッキーはそうなんだろうなと思ってて、それでもマッキーが「ゲイですけど何か?」っていう雰囲気を出してくれれば、昔と変わらず見ることができたと思うんだけど、そのへんの話を不自然なくらい覆い隠されてしまったので、それで距離感を感じてしまったんだと思う。まあでも考えれば、「ゲイですけど何か?」っていうのも、相当な勇気いるよね。私は完全な他人だから「ああそうか」って思うだけだけど、身内とか幼なじみとかは引いちゃうかも知れないし。一部のファンも引くだろうし。特にマッキーの初期のラブソング好きっていうような人、同性愛とは対極にあったりするかもしれないし。

とにかくそういう、「果てしなく噂は本当という雰囲気をまといつつも最終的な部分はボカシでいきますよ」的なスタンスを貫くんだろうと思ってたので、曲の中でここまであからさまに告白してるものがあるとは知らなかった。しかも相当切ないぞこれ。ここまではっきり(と見える)語られると、やっぱゲイなのか、と今更のように実感する。だって、彼の曲に出て来る女性がみんな現実にいそうな、すごいリアルな人物像なものだから、ゲイという噂がでて「そうかもな」と思いながら、曲を聴いてるときは「まあでも、女性が好きなこともあったんだろう」とどうしても思ってしまうんです。でも「軒下のモンスター」を聞くと、彼はたぶん最初から…?らしいし、だとすると、普通に女性を想定させている曲達が逆にすごい。どうやってストレートの恋愛をここまでリアルに書けるのだ。これが才能というやつなのか。想像なのか見聞なのか、見聞に基づく想像なのか。なんにしてもすごい。彼の歌詞が日常生活のさりげない一コマを上手に描写しているものが多いので、余計に。観念的な歌詞なら想像でもいけるのかもしれないけど、あそこまで生活感溢れる歌詞が想像で書けるのかなあ、ほんと不思議。しかも、想像しているのは実は男性だけど、字面だけ「彼女」に変えてるとも思えないんですよ。そこにいるのは、まぎれもなく女性なんです。そのへんがね、もうほんとに不思議。すごいと思う。やっぱ才能なんだかな〜。

セクシャルマイノリティの人達に対して私が感じるのは、ただもう、大変だろうなっていうことだけなんです。ただ生きて行くだけでも、自分の性別に別段違和感もなく、普通に異性が好きな人にくらべたら、毎日毎日がデフォルトで辛いんじゃないかと思うんですよね。「神様に選ばれていない」的な、無意識の宗教的な責め苦もあるでしょうし。親や家族との関係もあるだろうし。ただ、そう生まれたというだけなんだろうに、ね。この歌みたいに、その辛さを歌ってくれている歌があると、ほんのひとときでも救われるかな。だといいけど。

マッキーは他にもappreciationみたいな問題作を歌ってて、なかなか攻めてるなと思いました。所属レーベルもかなり二転三転してて、複雑なビジネス事情が絡んでそう。逮捕もあったし、いろいろ音楽以外のところで波乱のある人ですよね。有名になっただけ落ちた時の落差は大きかっただろうし、世間の無理解や軽蔑みたいなものも辛かっただろうし、ヒマな人はいまだに槇原敬之っていうとその手のからかい方しか知らないみたいなとこあるからね。でもFallとか聞いてると昔みたいで、紆余曲折があっても音楽性や創造性を損なわれることなく進んで来てるんだなと思います。そのくらい、この人にとって音楽は必要な、生きる術なんだろうと思う。ある意味、薬でさえも彼と音楽の間のつながりを断ち切ることができなかったと言えるのでは。今は個人レーベルみたいだけど、個人レーベルとかにしちゃうとそっから全然売れなくなる人もいるけど、マッキーはそうじゃないね。やっぱり、才能のある人なんだと思います。

 

 

Heart to Heart

Heart to Heart

 

 

結局女が強くなったということでしかないこと

流行っていると聞いて読んでみた、東村アキコさんの「東京タラレバ娘」。

 

東京タラレバ娘(1) (KC KISS)

東京タラレバ娘(1) (KC KISS)

 

 仕事はそれなりだけどお嫁に行けない、特別ブサイクでもないけどとりたてて美人でもない、そういうアラサー女子の日々の七転八倒を描いている。

私はもうこのステージを抜けたから「ほろ苦い昔話」を見る感覚で読めるけど、当時の私が読んだらおそらく立ち直れなかっただろうというくらい、作者の筆(ペンか)は容赦ない。

東村さんらしい毒とユーモアがふんだんに散りばめられて、ぐいぐい読めるけど、このテーマ自体は、別に新しいということもない。むしろ、最近では定番といえるかも知れない。 

私がこのマンガを見て思うのは、女はここまで寛容になったんだな、ということだ。

このマンガに出て来る男性は、みなろくでなし。一人の女性に尽くすなんて発想はないし(KEYは知らないけど)、女のほうもそれを許している。

別の言い方で言えば、女が男性にそこまで求めなくなったんだな、ということだ。

つまり、女性が精神的に強くなっているんだと思う。

ろくでもない男性を信じて傷ついてしまう自分を、苦笑まじりだとしても笑える余裕すらある。 

マンガは世相をいちはやく反映する鏡で、最近の少女マンガには、この手のろくでもない男がよく出て来る。最初は、従来の少女マンガ界には珍しい、リアルな描かれ方だから、面白いと思って読んでいたけれど、段々心配になってきた。世の女性達は、なぜそこまで男性に失望してしまっているんだろう、という気がしてきたから。

もうちょっとまともな男性、そこそこいると思うんだけど。そういう人の存在を、諦めちゃいけないと思う。それとも、諦めないことに疲れちゃっているのかな。

女性は強くなったけど、強くなったところで辺りを見回してもごほうびはなくて、まあ自分もなりゆきで強くなっただけで高尚な目標を持ってこうなったわけじゃなし、ごほうびがなくても仕方ないけど、とにかく強くなったことだけは間違いなくて、そして自分がひとりぼっちであることも間違いなくて。こうやって強くなるまでに自分なりに戦ってきて、疲れが蓄積してて、今、何の見返りもない荒野に立ち尽くしてる自分を発見すると、さらに疲労感が増してしまう。そんな感じなのかな。

タラレバの3人の後悔は、はずれてはいないが、あたってもいない。タラレバしてれば、幸せな結婚ができたのか?

たぶん、違うから。彼女たちは道を間違ったわけじゃないと思うから。冷静に考えたら、あの時、「そうでない」選択肢はなかった、と気づくはず。今はパニックだから、自分の過去が何もかも間違っていたような錯覚に陥って、ひーひーなってるだけだ。

彼女たちは道を間違ってない。一方向に流れていくベルトコンベアの先には、ちゃんと普通のストーリーがある。別に怖がる必要はない。

人生に正解はないから、間違いもない。東村さんがちゃんと分かってる人なら、必ずそういう結末になると思う。

Je suis Charlieと言論の自由について

社会人とも思えないんですが新聞全然読んでなくて、TVニュースの端切れとYahooニュースだけでパリの事件を聞いていたので、ISIS絡みなのかなとぼんやり思っていたんですが、そういうわけでもないそうで。

 今日、BBC World Serviceを見たら、最初から最後までそればっかやってて、あちらではかなり動揺が広がっているんだと急に実感した。そうだよね、日本からフランスって遠いから「はあ〜」くらいにしか思わないんだけど。

それでネットでちょっと詳しく調べてみました。

成果は以下の通り:

1. 標的になったのはフランスの風刺漫画紙「Charlie Hebdo」。ちょっと過激というか、正直ゲスっぽい。
2. その雑誌のウェブサイトは襲撃された後一旦閉鎖された。その後、再開した時には真っ黒な画面にただ一言「Je suis Charlie」とあった。
3. 日本のwikipediaの「米国憲法修正第一条」の訳文は明らかに間違ってる気がするが、誰も指摘しないんだろうか。

1. 日本人的感覚では、主要5紙のどこかが襲撃されたから言論の自由を訴える、っていうのはしっくりくるんだけど、お下劣おちょくりマンガ紙が襲撃されて、スキャンダルとして大騒ぎするならともかく、すわ言論の自由!っていう論調になるのがちょっと不思議。政治色が強かったからかなあ。政治色の強い風刺漫画紙、というジャンルが日本にないんで、イメージしにくい。でも、かつては自分たちもおちょくられてたサルコジやオランドも、この事件について言論の自由が守られるべきだと非難している姿はなかなか好ましい。

2. 襲撃された後のその雑誌のウェブサイトもカッコよかった。このカッコよさもまた、日本人が真似できないものだ。「言論の自由を訴える」みたいな直接的な表現じゃなく、また犯人を非難する事務的な声明文でもなく、ただ一言「Je suis Charlie」。「私はチャーリー(フランス語読みだとシャルリー?)です」ということだけど、Charlieとは雑誌の名前であり、つまりその雑誌の精神性の象徴みたいなものだろう。その象徴を一言だけ、サイトのトップにもってきた。要するに、事件があった後でも自分たちの自由な精神はみじんも脅かされていない、まだここにしっかりと立っているんだテロリストめ!という大いなる宣言なのだと思う。こういうのを誰の真似でもなく、自分らのオリジナルで出せるってところに、欧米における「言論の自由」はお仕着せじゃなく自主的な、主体的なものなんだなって思わされる。

3. その関連で、「言論の自由」を定めているアメリ憲法の条文を読もうと思って、ググってみたらwikipediaが出て来たという次第。アメリカもfree speechとか大好物だろうから、憲法の条文なんか、さぞシンプルでかっこいいんだろうなと思ったので。government of the people, by the people, for the peopleみたいな感じですよ。
でも、こっちはなかなか手強くて。

Congress shall make no law respecting an establishment of religion, or prohibiting the free exercise thereof; or abridging the freedom of speech, or of the press; or the right of the people peaceably to assemble, and to petition the Government for a redress of grievances.

というのですがね。これの日本語のwikiの訳が、

合衆国議会は、国教を樹立、または宗教上の行為を自由に行なうことを禁止する法律、言論または報道の自由を制限する法律、ならびに、市民が平穏に集会しまた苦情の処理を求めて政府に対し請願する権利を侵害する法律を制定してはならない。

というのです。↓

権利章典 (アメリカ) - Wikipedia

最初の「国教を樹立」が後ろの文のどこにかかってるのかが分からない。なんとなく、「国教を樹立することを禁止する法律」なのかなって気がするんですけど、「国会は、国教を樹立することを禁止する法律を制定してはならない」っておかしくない?だいたい、respectingはどこに消えたんだ。religionが即「国教」なのかっていうのもあるけど…ただの一宗教ではないのかな。
私、これ、「宗教の誕生を奨励するような法律を、国会は制定してはならない」という意味だと思うんだけどなあ。で、次の英語は「しかし、その宗教が自由に活動することもまた、妨げてはならない」だと思うんだけどなあ。そうでないと意味が分からないじゃん。

別にどうでもいいことなんだけど、言論の自由を定めた合衆国憲法なんて、研究してる人日本にもいっぱいいるんじゃないかと思うんだけど、意外とネットでは見当たらないし、私みたいな疑問を持ってる人もいないようなのだ驚いた。まあいいんだけど。どうでもいい情報なら溢れてるのに、ネットって偏ってるなあ。

玉置浩二


玉置浩二 Friend - YouTube

なんとなく眠れない夜の徒然に、玉置浩二のことでも書いてみます。

これ、生歌動画。途中でマイクに添えられる指がきれい。ドキドキする。

好きなのよねー、玉置浩二の声が。この人の声を聞くと、目がそらせなくなります。ある意味、人を追いつめる力があると思うの。この人の歌は。ずっと聞いていたくなる。

普通に「玉置浩二が好き」みたいなこと言うと、2回に1回の割合でドン引かれますけども。でも、やっぱり好き。歌を全部知っているわけじゃないし、ツアーに必ず行くとかっていうファンじゃないんだけど。

私の好きな曲にソロ名義の「行かないで」があります。YouTubeだと生歌バージョンのいいのがないんで、ここには貼付けませんが。

この歌、最初、歌詞をあんまり見ずにずっと聴いてたんです。すごくいい歌だと思って、大好きで、そういえばどんな歌詞なんだろう、さぞかし素晴らしい内容なんだろうと思ってある日ちゃんと見てみたら、アゴが外れるくらい、中身のない歌詞だった。え、こんな歌詞だったっけ?これっぽっちだったっけ?って何度も見返したほど。

なにもみえない なにも
ずっと泣いてた
だけど悲しいんじゃない
あたたかいあなたにふれたのがうれしくて

ああ 行かないで 行かないで
どんなときでもはなさないで
ああ 行かないで 行かないで
このままで

松井五郎さんの歌詞。普通に歌ってしまったら、たぶん全部聞き終わった後に、「だから、何?」とか訊きたくなる。目で見ただけじゃ、何が言いたいのか全然分からない。

だけど玉置氏が歌うと、揺さぶられる。彼が歌うことで歌詞にとてつもない広がりと、色と、温度が生まれて、聴いてるほうはそのただ中へぽんと、急に放り込まれて、とっさに掴まるものもなく、ひたすら溺れるような、落ち込んでゆくような、頼りない気持ちにさせられる。それはもう息苦しいくらいなんだけど、でも、そうかと言って歌詞の中には何も書かれていない。どちらかというと歌詞は隙間だらけなのに、苦しくなる、この不思議。

比べるとか失礼なんだけど、ジェロの「セレナーデ」っていう曲があります。玉置氏が曲を提供してて、作詞は須藤晃さん。須藤氏は玉置氏のソロにも何曲か歌詞を書いてますね。

この曲が、ちょっとつまんないんですよね。ジェロくんは上手に歌ってるんだけど、歌詞が、そこに書かれていること以上に広がらない。で、歌詞は、「行かないで」風の、あんまり具体的なことの書いてない歌詞なんです。その歌詞の隙間のところに物語を織り込むことが、ジェロくんの歌い方だと、できない。ジェロくんも歌い手さんだから、それは分かってるんじゃないだろうか。

玉置氏が歌ったら、たぶん「セレナーデ」も、すっごいいい歌に聞こえるんじゃないかという気がする。「行かないで」と同じ。聴いてる方は何もしなくても、勝手に目の前に情景が広がってしまう。

CDならこれに入ってます。

 

EARLY TIMES~Koji Tamaki in Kitty Records~

EARLY TIMES~Koji Tamaki in Kitty Records~

 

 

YouTubeで定期的に上げられては抹殺され、また上げられるを繰り返しているEXILE feat.玉置浩二の「Ti Amo」もね。歌詞の登場人物の抱えてる切なさが、テレビ越しに作られたドラマ見てるのと自分の親友が耳元で泣きながら訴えてるのの違いくらい、違う。こちらの内面にまで訴えかけて来る力がものすごく強い。だから、拒絶反応出る人もいると思う。そこまで他人から心をじかに撫でられたくないという人もいるだろうからね。

だけどね、私は好きなんですよね、そういうの。陶酔を感じる。ずっと聞いていたい。聞いたまま眠りに落ちて、そのまま死んじゃったら素敵。とか、極端なことを一瞬でも考えさせられてしまうのが怖いところ。素行が悪くても結婚離婚を繰り返していたとしても、あの声は特別。いいじゃないか、陶酔することのない人生なんて、一秒も生きていたくないんだ私は。

私は真夜中にYouTubeを徘徊する悪い癖がありますが、それをやるといつも必ずローテーションに入ってくるのが玉置浩二。履歴をたぐってると定期的に出て来る(笑)いろいろ聞くんですけど、椎名林檎とかサカナクションとかaikoとか、んで、玉置浩二

ただ玉置氏っていつも衣装が変なんだよね…。最高に売れてた若い時代からすでにファッションが微妙で、しっくり来てると思ったことがないんですけど、今も微妙…。なんか懐かしのヒッピーみたい?でもね、その格好で歌ってた「男はつらいよ」(2014FNS歌謡祭)は、やっぱりよかった。歌に対する姿勢はいつもストイックだなと思いました。

でもね、外見はやっぱ、ちょっと変えてほしいかな。こんくらいの時が好き↓ということで最後にもう1個貼付けときます。もちろん、外見だけじゃなく、歌もしびれるほどいいっす。

youtu.be

STAPはおどる

STAP細胞小保方晴子さんのことを最初に聞いた時は単純にわーすごいなーと思って、「あんなすごい研究をあの年齢で成し遂げるってなんかウソくさい」と言ってる女友達を、あんたそりゃヤッカミだよ!と、こちらもヤッカミ気分があるものだからその裏返しのアグレッシブなフェアプレー精神で結構ホットに議論しただけに、今の私はかなり残念なことになっている。

そんなことがあるといいな〜と思っていたのだ。ああいう、今風の舌足らずな喋りをし、おしゃれにも気を遣う女子が、きゃっきゃと笑いながら世紀の大発見をするなんて面白いじゃないか。嫉妬心が湧かなくはないけど、でも、そういう想定外があるのが世の中だと思っているし、素直に賞賛する気持ちもある。

だから、論文の誤謬が複数指摘されて、STAPの存在自体疑われ始めると、あちゃーと思った。やっぱ、研究ってそう簡単なものじゃないんだな、と。それは当たり前の結論なのかも知れないけど、当たり前すぎて味気なかった。やっぱり見た目通りの、ちゃらちゃらした、自分レスな女の子だったのかなと。

だから会見は少し興味あった。リアルタイムでは見なかったけど、夜のニュースで見た限りでは、やはり味気なくて残念だったけど、思ったほどひどくはなかった。

味気なかったっていうのは、自分の研究を信じる気持ちが弱かったから。自分発信じゃなく、誰か、上の方から与えられたアイデアを丸ごと借りるとこから出発したんだろうなと思う。「先生のいい子」パターンだ。だから「私の」理論、と言えない弱さがある。この理論と自分は心中するつもりなのだ、っていうところまでの必死さがない。だって、そのぐらいの発見でしょ。STAPって。再現した人がいると明言しながらその名前出さないっていうのも、やっぱり自信がないからだと思う。他人の力を借り過ぎてるから、自分で判断できないんだと思う。

ただ、反面、自分に与えられた役割の範囲内では、彼女は誠実に対応していたと思う。だから私がちょー上から目線で言えば、あれはあれで良かったと思うよ。

質問するマスコミがばかすぎて、それで小保方さんが気の毒になった。「STAPの存在を、素人である私たちがどう信じれば良いのでしょうか」とかさ、あんた、素人に分かるわけないじゃん。私も含めて。それだけ先端の研究だもん。ほんのちょこっとでもSTAPの理論勉強しようという気もないくせして、「素人にも分かるように」って、あほでしょ。

『人間の絆』サマセット・モーム

人間の絆 上巻 (新潮文庫 モ 5-11)

人間の絆 上巻 (新潮文庫 モ 5-11)

訳は古いですが、私は古い訳が好きなので、楽しく読めました。
手紙の結びが「御座候」とか、アナクロすぎて逆に新鮮。
ただ、「ミーチャンハーチャン」とか、むしろ古い時代の流行り言葉は、ちょっとげんなりした。「ミーハー」でもギリアウトじゃないか。作品にふさわしい言葉を選んでほしい。

モームという人は、やたらな悲観主義には走らない人と思っていたので、ラストはそれなりにハッピーなはずと思いながら読んでいたけど、さすがに下巻の真ん中あたりは、こりゃやばいんじゃないか、とちょっとハラハラした。
ただ、素直にフィリップ(主人公)に同情する気も起きず…

この人、「紳士」の概念にがんじがらめになっちゃってて、自分がどうしたいのかよく分かっていない気がする。性根は悪くなく、教養も備えた、しっかりした人物だということは間違いないんだけど、それでも、観念に囚われすぎだと思う。それに、バカみたいにプライドは高いし、自意識は過剰だし、ひねくれすぎてて、人の差し伸べてくれた手をわざわざ冷淡に振り払うようなところがあって、手が付けられない。
自分でもそれが分かっていながらどうしようもないらしいんだけど、そうやって自分を責めるのかと思いきや、最終的には他人を逆恨みってことが多すぎる。私なら、こういう人にはできるだけ係わり合いにならないようにすると思う。まあ、私たちはフィリップを内側から見てるからそう思うので、表に現れる行動だけ見てると、この人とても『紳士的』で、無害に見えるんですけどね。

そして彼の人生に大きな影響をおよぼすミルドレッド。ちょっと可愛いだけで全く自分勝手な、フィリップのことなんか毛の先ほども愛していない女。それにフィリップがメロメロになってしまう。お金はホイホイ出すし、わざわざ自分よりいい男を紹介しちゃったりもする。それで2人が付き合いだすと、地獄の苦しみを味わっている。
こういう人、いるのよね。
ミルドレッドは分かりやすい自分勝手だけど、フィリップも、分かりにくい形ながら、同じくらい自分の事しか考えてないと思う。
自分のことで精一杯な人は、こういう女に誠実に接することで自分の何かを完成させようとする。そのために涙ぐましいほどの自己犠牲を捧げたりもするんだけど、実は、考えてるのは自分の事だけ。これだけ苦しめられている、相手の女性のことすら考えていない。女の立場からすると、こういうの見ると、女みくびんなよ、と思っちゃうんだよ。

ただ、彼の人生の重さと言うか迫力は、よく伝わって来て、最終的にああいうハッピーエンドになって、ま、それはそれでいっかという感じにはなった。さすが大作家の筆というか、人物をけっして一面的には描かないので、私も上記のように考えてフィリップにイライラすることは多かったけれど、他の場面では共感する部分もあったりしたので、まあ、そんなとこです。

『嵐が丘』エミリ・ブロンテ

嵐が丘 (1960年) (岩波文庫)

嵐が丘 (1960年) (岩波文庫)

嵐が丘を読みました。
いくつか翻訳が出ていますが、昭和30年代に出版された本にしてみました。
あまり古い訳だと読みづらいし、新訳は軽すぎるというわけで、「ちょっと古い」くらいの訳が日本語もきれいに見えて、読みやすいのですね。
阿部さんの訳は人物名の最後の「-」を書かないスタイルでして、ヒンドリーじゃなくヒンドリとか、ネリーじゃなくネリとか書いてて、個人的に好きでした。IT用語みたい(笑)

その中身といえば・・・

暗い情熱がほとばしる話です。間違っても、
「暗い過去を背負った、危険で乱暴なナゾの男」対「上品で優しく、金も地位もある男」の間でヒロインが揺れ動く、というようなハーレクインな話ではありません。

とにかく、膨大なエネルギーを感じる。
それも負のエネルギー。

それが、激しい「愛」なのか、それともむしろ「妄執」と呼んだほうがふさわしいのか、人によって答えは違うと思うのだけど、私にとって愛とは生産であり、肯定であり、責任である。だから、私の目には、キャスリンのそれも、ヒースクリフのそれも「愛」とは呼べないのだけれど、でも、それはどうでもいいことなのかもしれない。
ヒースクリフの気持ちを知りながらエドガと結婚し、事態の収拾が難しくなってくるとヒステリーをこじらせて死んでしまうキャスリン。復讐のため嵐が丘に戻り、ただ周りをいたずらに傷つけてゆくヒースクリフ。どちらも、「なんでそうなっちゃうの~」と思わず本に向かって言いそうになってしまうくらい依怙地で、理解することが難しいけれど、たぶんそれは時代のせいなんだと思う。
当時は今よりずっと自由の少ない時代だったはずだ。そういう時代に生まれ、あるがままに命の炎を燃やすことを許されなかった二人が、矛盾を連発しながら破滅してゆくのは仕方のないことなのかもしれない。それは、イギリス・ヨークシャーの地方貴族であった作者とその姉妹の抑圧された人生を反映しているのだろうと思う。

でも、それだけで終わらないのがこの話のほんとうに素晴らしいところだ。
キャスリンもヒースクリフも死んでしまって、夢も希望もないのかと思いきや、「嵐が丘」には、最後におだやかな救いが訪れる。それが素晴らしい。

実際の作者の人生に、そんな救いがあったかどうか、なかったんじゃないかと思う。それでも、自分の小説の登場人物にその影を負わせてしまうことなく、遠い未来での幸せを約束したエミリ・ブロンテは、女性らしいやさしさと慈愛にみちた素晴らしい女性だったんじゃないかと思う。
ブロンテ姉妹のどちらもが、早くに命を落としたことは、とても哀しいことだし、残念なことだと思う。