『嵐が丘』エミリ・ブロンテ

嵐が丘 (1960年) (岩波文庫)

嵐が丘 (1960年) (岩波文庫)

嵐が丘を読みました。
いくつか翻訳が出ていますが、昭和30年代に出版された本にしてみました。
あまり古い訳だと読みづらいし、新訳は軽すぎるというわけで、「ちょっと古い」くらいの訳が日本語もきれいに見えて、読みやすいのですね。
阿部さんの訳は人物名の最後の「-」を書かないスタイルでして、ヒンドリーじゃなくヒンドリとか、ネリーじゃなくネリとか書いてて、個人的に好きでした。IT用語みたい(笑)

その中身といえば・・・

暗い情熱がほとばしる話です。間違っても、
「暗い過去を背負った、危険で乱暴なナゾの男」対「上品で優しく、金も地位もある男」の間でヒロインが揺れ動く、というようなハーレクインな話ではありません。

とにかく、膨大なエネルギーを感じる。
それも負のエネルギー。

それが、激しい「愛」なのか、それともむしろ「妄執」と呼んだほうがふさわしいのか、人によって答えは違うと思うのだけど、私にとって愛とは生産であり、肯定であり、責任である。だから、私の目には、キャスリンのそれも、ヒースクリフのそれも「愛」とは呼べないのだけれど、でも、それはどうでもいいことなのかもしれない。
ヒースクリフの気持ちを知りながらエドガと結婚し、事態の収拾が難しくなってくるとヒステリーをこじらせて死んでしまうキャスリン。復讐のため嵐が丘に戻り、ただ周りをいたずらに傷つけてゆくヒースクリフ。どちらも、「なんでそうなっちゃうの~」と思わず本に向かって言いそうになってしまうくらい依怙地で、理解することが難しいけれど、たぶんそれは時代のせいなんだと思う。
当時は今よりずっと自由の少ない時代だったはずだ。そういう時代に生まれ、あるがままに命の炎を燃やすことを許されなかった二人が、矛盾を連発しながら破滅してゆくのは仕方のないことなのかもしれない。それは、イギリス・ヨークシャーの地方貴族であった作者とその姉妹の抑圧された人生を反映しているのだろうと思う。

でも、それだけで終わらないのがこの話のほんとうに素晴らしいところだ。
キャスリンもヒースクリフも死んでしまって、夢も希望もないのかと思いきや、「嵐が丘」には、最後におだやかな救いが訪れる。それが素晴らしい。

実際の作者の人生に、そんな救いがあったかどうか、なかったんじゃないかと思う。それでも、自分の小説の登場人物にその影を負わせてしまうことなく、遠い未来での幸せを約束したエミリ・ブロンテは、女性らしいやさしさと慈愛にみちた素晴らしい女性だったんじゃないかと思う。
ブロンテ姉妹のどちらもが、早くに命を落としたことは、とても哀しいことだし、残念なことだと思う。