『マイ・インターン』

 

マイ・インターン ブルーレイ&DVDセット(初回仕様/2枚組/デジタルコピー付) [Blu-ray]

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ノンストレスで見られるフィールグッドムービー。

途中までとても楽しめたけど、ちょっとうまく行き過ぎで最後の20分くらいはダレてしまったかも。特に、旦那さんが最後に帰ってくるのはちょっと出来過ぎで、この旦那さんまた浮気すんだろなと思ってしまった。仕事がよくできて会社でも評価されてて、自分でもそれが快かったような人を家事専門にしてしまうことの無理さは、女性でも男性でも同じ事だ。そこを見ないと、「結婚しているのに浮気はよくない」みたいなモラルだけでどうにかしようとしても、ほんとの意味で解決しない。

ロバート・デ・ニーロ演じるベンも、途中まですごく良かったのに、間違ったメールを削除するためにジュールス(アン・ハサウェイ)の実家に忍び込んだあたりから、何か違うぞ??という感じがしはじめて(あれは素直にお母さんに謝るべきじゃ?^^;)、後は最後の最後まで頼りになる良き人生の先輩、っていうステレオタイプから一切出ないので飽きてしまった。何か一つくらい、ジュールスを傷つけたりケンカしたりするような場面がないと、嘘っぽくなってしまう。なんだ、ただ女性が言ってほしいことを言うためだけに作られたキャラじゃないか、っていう気がしてしまって、生きている1人の男性として見られない。

サンフランシスコのホテルで夜中閉め出されて、部屋に戻って2人になった時に、いちいちジュールスが挑発するようなことを言うのも良くないと思った。「アナタのこと男として見てませんから」みたいなことを、いちいち態度で示す必要あるかな?自分を応援してくれてる人に対して失礼だよ。あそこでベンが怒るなりすればもうちょっとリアリティあったのに。

とはいえ、フィールグッドムービーですから。割り切って見ることができれば、楽しい映画だと思います。

でも、シニアインターンなんてすごいな。ほんとにあるのかしら。しらじらしい社会貢献、と言ってしまえばそれまでだけど、たまにはベンのような人も多分いるのだろうから、いい制度だと思う。私も70歳になったらやってみたい。

実験的な試みを支持する社会の空気がなければ成立しないよね。こういうのはアメリカの良さだろう。それに、ジュールスは社長でとてもワンマンなのに、そういう人に対して「専属のインターン付けましたよ、明日来ますよ、ってことでよろ」で済んじゃうのもすごいと思う。そこに目が行ったのは、私が普段仕事で大会社の社長達をみんなで崇め奉って、何をするにもバカみたいに時間がかかることに、イライラしてるからだと思うけど…。ジュールスも、「え!?なによそれ〜」とか言いながら、結局受け入れちゃってる。このスピード感と即応力。アメリカっぽくて好き。

『ウォルト・ディズニーの約束』

 

エマ・トンプソンが好きで、ディズニーアニメには思い入れがあんまりない、という人にはとってもおすすめ、つまり私(笑)

エマの出ている映画は、私にとってはどれもハズレがない。エマの選ぶ映画と、私の好きな映画のタイプが近いんじゃないかと思う。恐れ多いけど。エマ好きなのよねーとにかく。演技がうまいし、頭がいいし、あったかいし、ガサツを危うく免れるサバサバ感。そのへんのバランス感覚が。私がロンドンに住んでた頃、エマがウェスト・ハムステッドに住んでると聞いて何度か通ったよ^^;

この映画は、メアリー・ポピンズの作者でもある偏屈で無愛想な女性作家パメラが、ディズニーの説得に折れてアニメ化を承諾するまでの話なんだけど、メアリー・ポピンズ自体はこの映画のモチーフとしてそんなに重要視されてない。されてるのは、エマ演じるパメラがどのように心を閉ざしていて、どのようにそれを開きうるのか、ということ。優しいけど生活力のない父親を、主人公は幼い頃から愛していた。成長するに従って父親の不甲斐なさも分かってくるんだけど、父親自身、そんな自分が嫌で嫌で仕方ないという精神構造を、娘だからよく理解して、なんとか救おうと努力する。

でも結局、世界は彼女の希望にこたえてくれず、やがて彼女も世界と交渉することをやめてしまう。

彼女の中には、幼い日のままの少女が住んでいる。彼女はそれを守りたくて、ガチガチに鎧を着込んでいる。

トム・ハンクスウォルト・ディズニーがまたいい。ブルドーザー並に前向きで積極的なアメリカ人。だけど彼とて恵まれた人生だったわけではない。パメラと種類は違うけど、苦労に苦労を重ねた少年時代がある。けれども彼はたくましくそれを乗り越えて、今は多くの子供たちに愛や夢をもたらす英雄になった。苦労は前面に出さず、明るく、闊達な人柄。そういうサクセスストーリーと、あくまでプラス思考な感じも、アメリカらしくてとてもいい。

パメラも、ウォルトのそういう背景が分からないわけではない。ウォルトも、パメラの抑圧された心を理解している。それでも、2人は哲学が違って、メアリー・ポピンズをどう映画化するかで対立がとけない。

ウォルトがメアリー・ポピンズをフワフワしたミュージカル仕立てにしたいのは、パメラの気持ちを理解しないからではなく、そういう哀しみや割り切れなさを表に出すことを好まないからだ。でもパメラには、それは嘘と写ってしまう。

ウォルトは最終的に、パメラの言い分を無視して自分のやり方を通す。このあたりの非情さも、ウォルト・ディズニー・カンパニーを率いる大社長らしい、納得の判断だ。ぎりぎりまでは心を尽くして話し合いをする。でも、最後の決断の時に分かり合えていなかったら、それ以上は引きずらない。大勢の社員を抱えた身であってみれば、当然のことだと思う。ウォルトのこだわりは、大人としてのこだわりだし、パメラのこだわりは、少女のこだわりだった。だから負けてしまうことは、たぶんパメラも分かっていたんだろう。

最後、映画の試写を見て、パメラは涙を流す。その理由は説明されない。後世まで多くの人に愛された、その映画を見て、思わず素直に感動したのかも知れない。または、自分の意思をへし曲げてこんなものを作られてしまったという、悔恨の涙かもしれない。

私も試写のシーンで泣いてしまったんだけど、理由はよく分からない。
なんか映画がほんとにフワフワしてきれいで、みんな嘘みたいに楽しそうで、それでなんだか泣けたのだ。パメラは涙を流しながら、心で父親を呼んでいるような気がしてならなかった。そしてその涙は、あたたかい涙なのだと、私は思った。実際のところは、分からないけれど。

『アドルフ』コンスタン

 

アドルフ (岩波文庫)

アドルフ (岩波文庫)

 

 こういう、一つだけのテーマに絞って書いている短編はいいですね。印象が強く残るし、ストーリーと対話がしやすいというか。

表紙にいきなり
「これをしも恋愛小説と呼ぶべきであろうか」
と、古文体の大胆な投げかけが(笑)
表現が硬くて分かりにくいのですが、要するに告白して両思いになるまでの過程は書いてあるけどほんの前フリで、その後の、次第に情熱がしぼみ、しぼんだ後も情にからめとられて身動きが取れない人間の生態をつぶさに描くことがこの物語のテーマであるということだと思います。そのプロセスだけに注目して書かれた小説という意味では恋愛以外の題材はない小説なんですが、見て分かるように「いわゆる」恋愛小説ではない。ということで冒頭の「これをしも…」の大演説につながっていきます。

人はいろんな風に恋をして、いろんな風にそれを手に入れ、いろんな風にそれを飼いならしていく(棄ててしまうということをしないならば)と思うので、この主人公の心の動きに甚だしく著しくおびただしく共感する、という人もいるだろうと思います。もう愛情はないんだけど、その後のずるずるべったりがどうしても断ち切れないというパターンは今でもよくあるし。

ただ今と違うのは、女性が1人で生きていけない時代だから、こういう恋に振り回されてしまうと致命的になってしまうということと、男も騎士道精神の華やかな時代だけに、それに捕われて一生を棒にふってしまう可能性があるということ、なのかも。ページを繰りながら、同じ女として、こういう時代に生まれなくてよかったなぁとしみじみ思いました。自分の人生の手綱を自分で握れないなんて、そんな不自由な時代は嫌だわ。

ただ、エレオノールは何度か1人で生きて行ける富を持てるチャンスがあったのに、それを取らなかったので、時代のさだめというよりは、彼女自身の精神のあり方が、最終的に彼女の末路を決めたのかもしれません。アドルフにしても、エレオノールのことがあってもなくても、たぶん大した人間にはならなかったんだろうという気がする^^;

女性の自立が難しい時代にあっても、もっと粋な恋の貫き方があると思うのです、「椿姫」とか、「マノン・レスコー」とかは、読んでてもっと楽しかった。「アドルフ」は男も女も、ちょっと残念な感じが拭えず。そもそも、この二人の間にあったものは恋でも愛でもないような気がする。それだからこそ、すっぱり断ち切れずずるずる続いたんだと思う。最初から存在しなかったものの燃え殻を必死でかき集めようとしても、ないものはないんだから。でも、二人とも、無理矢理「ある」と言い張ってあそこまで行ってしまった。だから、ある意味、「なんだそりゃ」というツッコミひとつで終わる話でもあります。

だけどまあ、ああいう感情が世間が言う「愛」とか「恋」というものの味気ない正体なのだ、と信じて終わる人もいるんだろうな。

ラブ&ヘイトの作家

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

 

村上春樹は今では嫌いな作家だが、昔はずいぶん好きだった。「ノルウェイの森」をブームから5年後くらいに読んで大好きになって、それまでの作品は全部読んだし、その後もしばらくは新作を追いかけた。ハルキストの友達によれば、村上春樹はラブ&ヘイトの作家だそうだ。偏向している作家はみんなそうだと思うけど、私は自分の時間軸の中に村上作品へのラブ&ヘイトが共存している。

先日、自分の本棚を眺めていて、村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」を久しぶりに手に取った。嫌いになってから大半の村上作品は処分してしまったが、これと「ノルウェイの森」だけは今もそばにおいてある。この頃の村上春樹は面白かったよなあ、と思って、20年ぶりくらいに読んだ。手に取ったのは下巻だったのだが、読んだら懐かしさがよみがえって、上巻に戻って全部読んだ。

結構たのしかったので、その勢いで、amazonの中古で「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を取り寄せた。これも、初めて読んだときは圧倒されて、しばらく放心状態から抜けられなかったほどの作品だ。ストーリーはほとんど忘れてしまった今になってそんなこと言っても嘘っぽいけど、当時はとても好きだったはずだ。

でも、読んでみると、3分の2まではまさに「ページをめくるのももどかしいくらい」続きが気になって読み進めたんだけど、終わりが見えてくる頃になって急に色あせてしまった。

相変わらず、世界観はすごい。「私」の世界も「僕」の世界も、どちらも全くのフィクションでありながら、あそこまで細部にわたって描き出せるというのは並みの想像力じゃないと思う。それに、読み手を引き込む力もすごい。ぐいぐい引っ張り、有無を言わせず物語に引き込む力、筆力というのか文章構成というのか、最近の作家は誰もかなわないと思う。

でも今回読み返してみて、世界構築の緻密さには改めて感心したけれど、メッセージには迫力がないと感じた。 結局、主人公が無茶な運命を割り振られて、特に抵抗もせずに死んでいく(厳密には死ぬわけじゃないけど)話でしかない、と写ったからだ。

もちろん、抵抗してもどうにもならないほど絶対的な方向付けをされてしまっている運命ではある。若い頃の、頭でっかちの私は、そういう暴力的な方向付けに対して、反射的に反抗するのではなく、自分なりに納得し受け容れる、いわばそのような運命でも自分のものとする主人公のある意味での強さに惹かれたのではないかと思う。

でも今思うと、それは頭の回りすぎというものであって、やっぱりまっとうに反抗する精神のほうが実用的だし、私はそちらに共感する。 そう思うのはたぶん、今の私が内的世界ではなく現実世界に生きていて、他人との交渉を常に行わなければならない状態にあるからだと思う。村上作品というのは徹頭徹尾内的世界の話で、他者との交渉はなく、自分の内的世界に住む自分1と自分2の会話や、自分3と自分4との会話があるだけである。

しかし現実世界は自分と他者との合意事項を元に作り上げるものだ。 他者は入れ替わり立ち替わり、無限のように存在する。現実世界において、私たちは間断なく他者と関わり続け、その関わりの中で自分を見失わず、かつ検証し続けなければならない。そういう種類の厳しさは、村上作品には書かれていない。

それでも村上春樹の作品が、あくまで自分のことしか書かないなら、私は大人になってからも手にとって、たまに読んだかも知れないんだけど、「アンダーグラウンド」なんかで現実世界の出来事に手を出すようになって、嫌になってしまった。あの地下鉄の事件を、すぐさまやみくろと結びつけるような公私混同ぶりというか、が、私にはなんだか気に障った。村上が加齢と共に変質したんだと思っていたけど、今回「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読んで、あの頃のようにわくわくしなかったということは、村上が変わったのではなくて、私の問題なのかもしれないなと思った。

CITRUS SUN @ Blue Note Tokyo

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友達がチケットを取ってくれたので、行ってきましたBlue Note Tokyo。 私ここ大好きなんです。南青山という場所も好きだし、無駄な空間があちこちにある建物のレイアウトも外国みたいで好き。

Citrus Sunという英国のバンドは、全然知りませんでした。 インコグニートのリーダー、ブルーイが持っている別のバンド、らしいです。でもインコグニートも「名前は聞いたことあるなあ」くらいの知識の私なので^^; ジャンルはファンクというかビート感のあるジャズというか、と思って調べたら、アシッド・ジャズという言葉があるそうな。たぶん、音的には新しいものを目指しているわけじゃなくて、昔の古き佳きサウンドを洗練させるという方向性なのかなと思いました。 だから私のような年代向けなんでしょうね^^; 歌ものは少なくて、インストが大半だったんですが、何曲か歌もあって、「What colour is love?」はとてもステキだった。ヴォーカルのイマーニーという女性のハスキーな声がメロウな曲調にぴったり。ハスキーというか、ハスキーというには伸びがあるので、ベルベットボイスという方がいいのかな。黒人シンガーにはよく見かけますが、日本人でこういう声の人あまり思い浮かばない。昔の八代亜紀とかかしら。

その、バンドのプロデューサーであるブルーイは自分でもプレイしてて、たぶんすごい人なんだと思うのですが、ちっともエラそうなところがないんです。バンドのギタリストであるジム・マレンは、英国でベスト・ギタリストに選ばれるような大物なんだそうですが、ブルーイの彼に対するリスペクトが純粋で、

「14才の頃、ジムのギターが聞きたくて彼が弾いてる店に行ったんだ、でも僕は子供だから入れてもらえなくて、窓の外からわずかな隙間を通して彼のギターを必死で聴いたんだ」

とか、映画になりそうなエピソードをさらっと紹介したり、

「僕らはたまたま運がよくて、タイミングのいい時期に出会うべき人と出会えたから、こうやって楽器と共に過ごす人生を送れている。世界には僕たちよりずっと腕がいいのに、僕らほどラッキーではないミュージシャンがたくさんいるんだ」

とか、こんなMC聞いたら泣いちゃうわ。大好きになりました。 公演を聴いてCDを買うことなんてめったにないけど、今回は買ってしまった。 ブルーイ自らサインもしてくれて、サービス満点。写真も撮ってくれそうだったけど、なんか恥ずかしかったので遠慮した。今日の今日まで全然知らなかったのに、急にファンみたいに振舞うのもどうかと。^^; でも握手してくれた手はとっても分厚くてあたたかだった。イメージぴったり。

ブルーイもジム・マレンも、その道では超有名人なのに、演奏しているときは、音楽に触れたばかりの高校生のような、音に対するピュアな喜びみたいなものがステージにあふれていて、見ているこちらの疲れやストレスも一気に押し流されるようでした。それだけ長くやってきて、いまだにそんな楽しそうな、嬉しそうな顔ができるものかなと、不思議に思うくらい。 そんな期待全然してなかったけど、すっかり幸せな気分で帰途につきました。ありふれた言い方だけど、音楽の力ってすごい。

PEOPLE OF TOMORROW

PEOPLE OF TOMORROW

 

三原順の夫

 

 考えてみれば、私は三原順が「はみだしっ子」を描いた年齢より、萩尾望都が「トーマの心臓」を描いた年齢より、ずっとずっと年を取ってしまった。そう思うと、未だ何も成し遂げていない自分に呆然とするけど、私は凡人なので仕方がない。

お二人とも20代の時に素晴らしい作品を産み落とした。三原順萩尾望都は私の中学時代の神様みたいなものだった。どちらの作品も私はほぼリアルタイムではないんだけど、それでも、その影響が色濃く残る時代を過ごした。その頃はお二人がとても大人に思えていた。でも今改めて考えると、それらはいわゆる「若書き」だったんだなあと感じる。大人の成熟した、落ち着いた筆致で描いたのではなく、若さのエネルギーで描き切った、というような。

そう思うと、はみだしっ子も、トーマの心臓も、全然違ってみえてくる。昔は、子供が大人に憧れるように、それらの作品に憧れた。今は、若い日の思い出を、当時の情熱を懐かしむように、それらを遠くから見て、愛しんでいるような気がする。

そして、この本を買って、私は初めて、三原さんが結婚されていたことを知った。

それを知って、私はすごくほっとした。心から、良かったと思った。あんなに繊細で鋭くて、やや加害者意識の強い、そういう三原さんがもし生涯ひとりぼっちで、あんなにも早くこの世を去っていたとしたら、それはとても悲しいことだったから。でも、私はそう思っていたのだ。三原さんの感性を受け止められるような人がそう簡単にいるとは思えなかったから。

しかも、お相手は(たぶん、これは私の推測だけど)高校時代のボーイフレンドではないだろうか。三原さんがデビュー前、まだ学生で、うまく描けずに悩んでいた頃、「僕に見せるための漫画を描けばいいのでは」とアドバイスしてくれたという、その人なのではないだろうか。

だったら、それは、三原さんの本質をちゃんと知っていた、「ほんとのパートナー」だったんじゃないかと思う。そういう人に見守られて、「はみだしっ子」を描いていたとしたら、なんだかとても嬉しい。あの、ひりひりするような心の痛い話を、そばで誰かに見てもらいながら描いていたのかもと思うと、思わずにやけてくるくらいホッとする(笑)。はみだしっ子は生きる難しさと正面衝突している話だから、あれを1人で描いていたと思うとつらい。

その人は今、どうしているんだろう、と思う。

きっと、普通に会社に通って、ごく普通に生活されている気がする。三原順の夫として、思い出話を聞かせてくださいよなんて持ちかける出版社がいるかも知れない。でも、きっとそういうのを全部断って、今日も会社に出かけてるのかも知れない。そして三原さんをアナーキーな漫画家じゃなくて、1人の奥さんとして、今も守ってあげてるんじゃないかと想像(妄想?)してしまう。

ちなみに私は「Die Energie 5.2 11.8」が大好き(はみだしっ子じゃないけど^^;)。ああいう話が書ける作家は、後にも先にもいないと思う。あれを読んで、私も加害者でいいって思ったんです、三原さん。

世の中、被害者ばっかり多すぎるんだもの。

『言の葉の庭』新海誠(小説)

 

小説 言の葉の庭 (角川文庫)
 

 秒速5センチメートルの人です。

監督自らノベライズ。

 

私は古い時代の作家が好きで、現代作家はあまり読まないんですが、夫が暇つぶしに買ってきて、ベッドサイドに置いていたので、私も入眠剤がわりに読んでみたのですが、面白かった。今っぽいなあと思って。

そして、今でもこういう恋愛らしい恋愛をしている人いるんだなと思ってちょっと安心した。私の感覚が古くなっているだけなんだろうけど、今の世の中窮屈なことが多くて、どうやって自由恋愛なんかできるかなという気がどうしてもしてしまって。学生のうちに、ほとんど初恋のうちに、生涯の運命の人と、出会った瞬間に両思いになっておかないともう、人生詰んでしまう気がする。

だけどこうやって苦悩して胸を焦がして、何かがいびつな恋愛をしてる人がいる。そういう人が朝の満員電車に乗っている、そう思うと少し安心する。

誰にもその人なりの事情があるよ、というのは分かる。だけど雪野さんは可哀想だし、相澤さんはよくない。一言謝るべきだよね。ただ、ここで謝る展開がないのが今っぽいなあと思った。ここのとこが、本筋とは関係ないんだけど一番印象に残った。最近このパターンあるよね。

たぶん、謝って済む問題じゃないってことなんだろう。しかし、謝って済む問題じゃない→だから謝らない、なのかね。後で罰があたるようなほのめかしもないし。たぶんないんだろう、罰なんて陳腐すぎるんだろう、現代のコンテクストでは。相澤さんは自分で自分を十分追いつめているから、なんかそのへんでオフセットされてんだろう。まあ、自分の中にそういう懲罰的な傾向があるのに気づかされるのもなんだか苦々しいんだけど^^;

でも自分で自分を追いつめるのって大体、誰もそんなとこまで望んでないっていうレベルまでこじらせるよね。相澤さんは外から触れないような入り組んだ場所に落ちてく、そして雪野さんの傷は相変わらずそのままで癒されない。そんなの必要?

それとも相澤さんの不器用さを可哀想と思ってあげるべきなのかな。

私はダメだな、訳も分からず傷ついた雪野さんのほうに感情移入してしまう。雪野さんもなんで誤解されるがままにしてたんだ、という意見はあるでしょうが。

でも、読んでいるうちに孝雄くんという救いが現れたので、どうでもよくなった。孝雄くんの一途な気持ちは素敵だったし、だから相澤さんはどうでもよくなったんだけど、でもそれでいいのかなあって、そこのところはモヤモヤしたままだった。

あの二人はどうなるんでしょうか。十二歳差っていうのは、なかなか、女性が上の場合にはしんどそう。下にいる男の子はいいかも知れないけど、女性のほうはいろいろ辛い。まして雪野さんみたいに繊細では、ちょっと難しいのかな。