ラブ&ヘイトの作家

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

 

村上春樹は今では嫌いな作家だが、昔はずいぶん好きだった。「ノルウェイの森」をブームから5年後くらいに読んで大好きになって、それまでの作品は全部読んだし、その後もしばらくは新作を追いかけた。ハルキストの友達によれば、村上春樹はラブ&ヘイトの作家だそうだ。偏向している作家はみんなそうだと思うけど、私は自分の時間軸の中に村上作品へのラブ&ヘイトが共存している。

先日、自分の本棚を眺めていて、村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」を久しぶりに手に取った。嫌いになってから大半の村上作品は処分してしまったが、これと「ノルウェイの森」だけは今もそばにおいてある。この頃の村上春樹は面白かったよなあ、と思って、20年ぶりくらいに読んだ。手に取ったのは下巻だったのだが、読んだら懐かしさがよみがえって、上巻に戻って全部読んだ。

結構たのしかったので、その勢いで、amazonの中古で「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を取り寄せた。これも、初めて読んだときは圧倒されて、しばらく放心状態から抜けられなかったほどの作品だ。ストーリーはほとんど忘れてしまった今になってそんなこと言っても嘘っぽいけど、当時はとても好きだったはずだ。

でも、読んでみると、3分の2まではまさに「ページをめくるのももどかしいくらい」続きが気になって読み進めたんだけど、終わりが見えてくる頃になって急に色あせてしまった。

相変わらず、世界観はすごい。「私」の世界も「僕」の世界も、どちらも全くのフィクションでありながら、あそこまで細部にわたって描き出せるというのは並みの想像力じゃないと思う。それに、読み手を引き込む力もすごい。ぐいぐい引っ張り、有無を言わせず物語に引き込む力、筆力というのか文章構成というのか、最近の作家は誰もかなわないと思う。

でも今回読み返してみて、世界構築の緻密さには改めて感心したけれど、メッセージには迫力がないと感じた。 結局、主人公が無茶な運命を割り振られて、特に抵抗もせずに死んでいく(厳密には死ぬわけじゃないけど)話でしかない、と写ったからだ。

もちろん、抵抗してもどうにもならないほど絶対的な方向付けをされてしまっている運命ではある。若い頃の、頭でっかちの私は、そういう暴力的な方向付けに対して、反射的に反抗するのではなく、自分なりに納得し受け容れる、いわばそのような運命でも自分のものとする主人公のある意味での強さに惹かれたのではないかと思う。

でも今思うと、それは頭の回りすぎというものであって、やっぱりまっとうに反抗する精神のほうが実用的だし、私はそちらに共感する。 そう思うのはたぶん、今の私が内的世界ではなく現実世界に生きていて、他人との交渉を常に行わなければならない状態にあるからだと思う。村上作品というのは徹頭徹尾内的世界の話で、他者との交渉はなく、自分の内的世界に住む自分1と自分2の会話や、自分3と自分4との会話があるだけである。

しかし現実世界は自分と他者との合意事項を元に作り上げるものだ。 他者は入れ替わり立ち替わり、無限のように存在する。現実世界において、私たちは間断なく他者と関わり続け、その関わりの中で自分を見失わず、かつ検証し続けなければならない。そういう種類の厳しさは、村上作品には書かれていない。

それでも村上春樹の作品が、あくまで自分のことしか書かないなら、私は大人になってからも手にとって、たまに読んだかも知れないんだけど、「アンダーグラウンド」なんかで現実世界の出来事に手を出すようになって、嫌になってしまった。あの地下鉄の事件を、すぐさまやみくろと結びつけるような公私混同ぶりというか、が、私にはなんだか気に障った。村上が加齢と共に変質したんだと思っていたけど、今回「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読んで、あの頃のようにわくわくしなかったということは、村上が変わったのではなくて、私の問題なのかもしれないなと思った。