歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』@国立劇場

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歌舞伎を見に行った。

歌舞伎はたぶん、生まれて初めて行った。

上演時間が長いので、なかなか手が出なかったが、国立劇場で12月に忠臣蔵をやると聞いて、雰囲気で申し込んでしまった。12月に忠臣蔵。大晦日に第九というほどのおあつらえむきだ。


今回の趣向は、仮名手本忠臣蔵の全段を3ヶ月かけてすべて上演するというもので、10月に第一部、11月に第二部、12月に第三部をやっている。だから、自分が見たのは最後の3分の1、第八段から十一段までだ。どうせだから討ち入りのシーンが入っている部分を見たかったのだ。
ただ、実際には仇討ちに関係ない部分も楽しめた。せっかくなので、サイドストーリー的な部分で印象に残ったことを書こうと思う。

第八段から九段で、内蔵助の息子と夫婦にはるはずだった娘が、浅野家お家断絶で縁談が棚上げとなってしまったのを悲しんで、母親とふたり、鎌倉から、大石家が隠れ住む京都山科まで旅をして会いにくるエピソードが描かれる。


しかし大石家では、仇討ちの暁には切腹が待っているだけの息子とまだうら若い娘を添わせて、すぐに未亡人にしてしまうのは忍びないということで、あれこれと理屈をつけて断ろうとする。


娘の父親、梶川与惣兵衛は、実は松の廊下で切りかかった内匠頭を制止した人物。ある意味、彼が止めてしまったばっかりに、内匠頭は吉良を討ち取ることができず、いたずらに切腹させられる羽目になったともいえるので、結婚させてほしければ与惣兵衛の首をもってこいという。ただ、これは本気ではなく、娘を諦めさせてやりたいばかりに無理難題を言っているだけなのである。


仇討ちの計画を全く知らない母娘は、ただ憎まれて断られたと絶望し、娘は結婚できないなら生きる甲斐もないと、また母親は帰って父親にあわす顔がないといって心中を図ろうとする。
そこへ、実はずっと後をつけてきていた与惣兵衛が現れる。与惣兵衛は悪意をむき出しに、遊興にふけっているだけの大石内蔵助を腑抜けであると罵倒する。そして、激昂した内蔵助の息子の手にかかって、重症を負う。
苦しい呼吸の下から、与惣兵衛は、松の廊下で思わず内匠頭を制止してしまったことをずっと後悔していたと告げる。そして、本来なら忠義のために捨てるはずのこの命をいま差し出すから、それに免じて娘の思いをどうかかなえてやってほしいと懇願して息絶える。



昔の日本の価値観が、てんこ盛りに詰まったストーリーだ。素直にいいなと思う部分と、正直引くなと思う部分がないまぜなので一言で語れないが、少なくとも、昔の日本の価値観がよく表されていることには間違いない。
たとえば許婚の男を追って、娘が鎌倉から京都まで徒歩でやってくるくだり。若い娘が一途な思いで一生懸命やってることだから、可憐といえば可憐だけれど、重いといえば重い。まあ重いなんて言ってる時点で、自分に歌舞伎の世界を生きる資格はないのだろうが。

また、自害だの切腹だので人がすぐに死ぬ。今の時代から見ればそんなに命を粗末にしなくても、というところだけれど、この時代は死ぬということが実際今より身近だったんだろう。流行り病や戦やらで、わりと簡単に死んでいたのだろうし、あちこちで切腹してれば、そういうことが自分に起こりうるという感覚も日々培われていただろう。今の時代はむしろ日常生活から死の影を排除しすぎてて、それでもいずれ誰にも訪れる死を、どのように位置づけるか見失っている感があるくらいだから、この時代の感覚は、ある意味健全なのかもしれない。(そんなことを真面目に考えている自分は、やっぱり歌舞伎向きじゃないのか・・・

与惣兵衛が息絶えるシーンは見所のひとつで、客席も盛り上がったが、この役を演じていたのが有名な松本幸四郎。やっぱりうまい。もうほんとにそんな年なのかそれとも作ってるのか分からないが、かなり声がしゃがれてて、せりふがクリアに聞き取れなかったりもしたけど(ビギナーなもので)、それでも一言で万感の思いを伝える力があると思った。自分としては、一番心に残った場面である。


仇討ちの場面はクライマックスなので当然派手だし、立ち回りもあるのだけど、意外とあっさりと終わった。歌舞伎と一口に言ってもいろいろあるのかも知れないが、忠臣蔵で言えば、全編通して定期的に山がきて、クライマックスも平均よりちょい高めの山、くらいのイメージなのかと思う。膨大な長さの演劇なのだから、さぞかし最後にカタルシスが来るんだろうと思っていたふしもあって、期待値が大きすぎただけなのかも知れないが。

しかし、全部演じたら十何時間もかかる演目なら、観客が最初から最後まで集中して見ることは期待してないはずで、元々、要所要所に盛り上がりが来て、好きなところだけ見てもいい、というシステムになっていたのかなと思う。インドネシアのワヤン演劇なども、一晩中だらだらと続けて、観客は食べたり飲んだり、途中寝たりしながら観ると聞いたことがあるが、それに近いかも知れない。ストーリーも予め知っていることが前提で、自分の好みの場面が来たら「いや~、やっぱいいな~」と思いながら見るとか、そういう楽しみ方かなと思う。非常にアジア的だ。



自分は西洋演劇の、だいたい3時間程度、ストーリーはクライマックスに向けて集約されていって最後にオーケストラがジャンジャンと盛り上げてカタルシス、というタイプに慣れているので、今回、緩慢なせりふ回しに浄瑠璃のひたすらシンプルな音楽で、休憩を入れて5時間の長丁場はくたびれてしまって、最後のあたりは早く終われと思ってしまった。

ただ、こうやって考えてみると歌舞伎の楽しみ方というのはそれなりにありそうで、実際、来年も忠臣蔵をどこかでやったら、また見てみたいなという気がしている。繰り返し見ることで、さらに楽しめるのかなと思う。

国立劇場に行く度いつも思うのだが、扉の内側に入った瞬間、外界から断絶された別天地に入った感じがする。この空間では別の時間が動いていて、演じている人々すべて、そして劇場内で働いている人たちすべてが、この日本の古い芸能をライブで生かし続けているんだという気がすごくする。軽薄な自分らが過去や伝統を忘れて、目先の忙しい毎日に埋没していても、この場所では古き日本をしっかりと守り伝えている人がいるんだ、と思うと不思議な安心感があって、落ち着くし、また来たくなる。

今年は国立劇場の小劇場で、文楽忠臣蔵もやっているらしい。
文楽もそのうち、一度見てみようと思う。



 

(注)ちなみに、登場人物の名前は、ここでは理解のために史実に基づいた名前にしているが、実際には大石内蔵助は「由良之助」など、微妙に全員の名前を変えてある。