エドワード・ホッパー『ナイト・ホークス』

最近ホッパーが薄くマイブームで、部屋のカレンダーもホッパーにしている。
代表作『ナイト・ホークス』も大好き。ずっと眺めていても飽きない感じ。

有名な絵なので、いろんな場所で取り上げられる。
今朝も新聞の文化面にこの絵についてのエッセイが載っていた。

この絵を評する時に、人はよく「孤独」という単語を使う。
都会に住む人間の孤独、とか、そういう感じ。
それを読むといつも違和感を感じてしまう。

ホッパーの絵は、確かに静かだけれども、私は孤独は感じない。
この間国立新美術館で『日曜日』を見たんだけど、これも解説によれば失業者なのだそうで、失業者がぽつんと道路わきに座っているならそりゃ寂しい風景なのかも知れないけど、どうもな。
平日にこの状態なら失業者だけど、日曜日に手持ちぶさたな感じになってるのは普通の気もするし。

それに、なんといってもホッパーの絵は明るい。
明るいだけ陰も濃いので印象派の絵なんかとは違うんだけど、明るい部分は問答無用の明るさ。太陽光と言うより電気光。明るすぎるから、それがかえって孤独感を助長してるということなんだろうけど、やっぱりな、なんか違うのよね。
あの感じは、どちらかというと「何も考えてない感じ」だ。
日曜日に、おじさんが道路わきに座った。失業者かも知れないし、そうでないかもしれない。家で掃除する奥さんから「アンタ邪魔だから外で時間つぶしてきてよ!」と言われて仕方なく出て来たのかもしれないし、独り者かもしれない。
とにかく、この瞬間、おじさんは何も考えていない。
しばらくしたら、もしかすると、「おれってどこにも居場所ないよな・・・」とかしみじみ考え出すのかも知れないけど、とにかく今のこの瞬間は、おじさんは何も考えていない。
やってきて、ただ座っただけ。
その瞬間を切り取った絵のような気がする。
明るい光が、まるでカメラのストロボのようで。
ホッパーの絵はどれも、永遠に続く一瞬、という印象がある。

『ナイト・ホークス』の人々も、やっぱり何も考えてないと思う。
夜の店にきて、いつもどおりに喋っているだけ。今夜は特に面白い話もないし、かといって退屈でもなく、ましてケンカもしていない、ごく普通の夜だ。圧倒的に押し黙った感情が横たわっているけれど、どちらかといえば、微弱な音で聞こえてくるのは、幸せのほうだ。

そう感じるのは、私もこういう世界の一部だからかも知れない。
「孤独」っていうのは対岸にいる、こういう世界とは関係ない人の感想のような気がする。

たとえば、『アルジャーノンに花束を』のチャーリィ・ゴードンは可哀想なのか?
チャーリィ・ゴードン自身は、自分が可哀想だなんてきっと思っていない。最後、彼は幸福だったと思う。
でもそれを見て、可哀想だという人もいる。
それと同じ。
私は彼を可哀想だとは思わなかった。頭が良かった時の苦しみや辛さを全部忘れられてよかった、と、普通に喜んだ。ほっとした。

人は自分が幸せだと信じることができていれば、それでいいのだと思う。
他人から見てそれがたとえみじめな状況であろうと、そんなことはどうでもいい。
ホッパーの絵を見て寂しさを感じないのは、彼も夜鷹が静かに集い微笑む、その世界の住人だからかも知れない。