『ラースと、その彼女』

最近仕事の行き帰りだけで疲れてしまい、家でじっくりブログ書く時間が取れてないのですが(長文好きなのでついったーじゃ間に合わんし)、久しぶりに映画でも。
奇をてらった設定に思わず注目してしまうものの、それ以上の中身があるのか不安でもひとつ手が伸びてなかった本作。結論から言うと、結構よかったです。
主人公はとにかく、どうにかしてちゃんと生きて行こうとは思ってるんだなと気づかされます。
人形を彼女がわりにしちゃったという、とんでもなく非現実的な行動とは対照的に。


最後で牧師さんが言った、
ビアンカは我々の勇気を試す存在でした」
っていう言葉、それがすべてを表していたと思います。

小さい田舎町であること、教会の役割がまだ形骸化しておらず、コミュニティの人達が集まり話し合う場をきちんと提供していること、また発言力のある人達に理解力があること、そういういろいろな偶然が重なっていないと、この話は成立しません。普通は人形を恋人にしてる男性を、こんなに温かく受け止めはしません。それが普通だし、そういう環境は彼のような男性には冷たいものと写るかも知れないけど、その中にいる一人一人は、そこまで悪意があるわけでもないのです。そういうのが一般的な環境だろうと思います。

普通ああいう人がいるとまずからかわれるし、生意気盛りの子供がビアンカにイタズラしたりするでしょう。見るからに嫌悪感を示す人も出て来るでしょう。訴訟大好きのアメリカなら裁判沙汰になるかも、精神的苦痛とかなんとかで。それから、テレビが来るでしょう。テレビを見た人達が批判するなり応援するなり、どちらにしても大反響を巻き起こして、あんな穏やかで平和な生活は送れなくなるでしょう。

しかしこの作品ではそういう俗世間の介入を、静かにシャットアウトしています。
この条件下であるからこそ、繊細すぎるこころを持つこの主人公は、癒されていくことができる。現実に考えればかなりありえない設定だけど、更に逆に考えれば、静かで攻撃されない環境さえあれば、かなり深い心の傷を治すことも出来るんだなとも思えました。忙しい日常では、心の傷も体の傷と同じように、分かり易く名前をつけ、その病名に応じた薬を出して終わりだろうし、皆がそれがベストなことだと思っている。だけど、そればかりではないんだなと。
診察料と薬代に比べたら、町の人がラースに払った犠牲はよほど大きい気もするけど、その代わり犠牲だけでなく、町の人たちにも変化があったりして、人間同士のやりとりの中では、決して一方的なものに終わる事がないので、どちらがいいのか、それは本人だけでなく周囲にとっても、どちらがいいのかは、簡単には決められないと思いました。

カリンはとてもよくラースの面倒を見ていますが、ただ母性愛なのではなく、ラースが言うように彼女自身も不安なのだろうと思います。だからラースを救うことによって自分も救われる。私たちは多かれ少なかれ、そのようにお互い依存しながら生きているんだと思います。
あの町の人達は、意識的にも無意識的にも、それが分かっていたから、見返りを求めることなく、ラースに付き合うことができたんだと思う。

ただまぁ…
さは言えラースがあんまりみんなに無理を強いてるような気がして、時々、
「そんな、人に気ぃ遣わしてばっかりではあかんやん、失礼やん」
と1人でハラハラしてしまいました。笑