『想像ラジオ』いとうせいこう

 

想像ラジオ (河出文庫)

想像ラジオ (河出文庫)

 

 初出が2013年。その時読んだらもう少し感じ方が違ったかもしれない。あの震災からどのくらい遠ざかったかで、という意味だけど。あの震災は本当にショックだった。自分も、一日中テレビの前から離れられなかったことを覚えている。あの時の自分は、放心していた。繰り返される津波の映像に、完全に心をもって行かれていた。その感覚がまだ新鮮な時なら、この本はもっと刺さったかもしれない。

途中まではすごく面白かった。永遠に続きそうな軽薄なおしゃべりの下に深い悲しみや憤りや矛盾、絶望、そんなものがあるのはよく見えたし、どこに着地するのだろうかと思ってどんどん読み進めた。ラッシュの通勤電車でハードカバー広げて読んじゃってたくらい。(迷惑だって)

この作者のことはよく知らない。他の作品も読んだことがない。他のもこんなに饒舌な語り口で進むのだろうか。いずれにせよ、軽薄に語られるエピソードの一つ一つも深いし、そしてその語り口の下に沈む世界も深い。すごい、すごい、と思って読んでいった。

奥さんの声が聞こえないのは何故なのか。それが一番の関心事だった。彼がいうように、ただ単に生きてるから聞こえないのか。でも生きてる人間の中にもDJアークの声を聞く人がいるし、DJアークに聞こえる生きている人の声もある。何か、他に意外な理由があるのじゃないか。これだけ様々な仕掛けを散りばめることができる作者であるならば。と、思った。

でも、そこは意外とあっさりしてたように思う。もちろん、あっさり見えているようで、作者の意図はまだまだ隠されているかもしれない。こういうタイプの作品に隠された意図なんてものは、探し出すと泥沼にハマりそうな気がする。文学部の学生が卒論とかに取り上げると面白い論文が書けるんじゃないかな。

だから自分に受け取れた範囲だけでいうのだけど、あっさりしてた。奥さんは主人公を愛していたし、子供も主人公を愛していた。

それがあっけなさすぎて物足りなかったというか。だってアークの回想によれば彼はあまりいい夫でも父親でもなかったように思ったから。でも、実際にはそこまで悪くもなかったのかな。ちょっと偽悪的に自己認識しているだけなのかな。

それから、死者の苦しみや家族を亡くした人の悲しみを本当に理解できないことを、そこまで悪いことだと思わないことが、この本に共感しきれなかった理由の一つかもしれない。だからナオ君の自分に対する追い込み方に、そこまでしなくてもいいんじゃないか、と思ってしまった。

生きている者の傲慢さで死者を思っても、それはそれでいいし、また別の傲慢さでもって思い出しもしないとしても、やっぱりそれでもいい。生きている人間はともかくも生きて行かないといけないし、生きることは大変だし、自分の周りのことにしか気が払えないとしても、残念で寂しいことかもしれないけど、罪ではないと思う。

死は生きている我々全てに訪れるもので、ドラマチックであれ平凡であれ、死は死だ。今日もどこかで誰かが命を終えているのは確実で、そのうちのいくつかは予期しないタイミングで不本意に奪われているのかもしれない。でも自分たちはそれの一つ一つに心を寄せていない。それはしょうがない。そういうものだし。

逆に自分が死ぬ時に、ごく親しい人たち以外が自分の死に関心を持たなかったとしても多分気にしない。たまさか全く知らない誰かが偶然自分の死を知って、全く無責任で浅い同情を投げてきたら、自分は多分ありがとうって言うと思う(言えればの話だが)。

何だろう、自分はそう言う浅はかな感情が嫌いじゃない。それはその人の優しさだと思う。