そらを見る子ども

年を取ると、人の話も、すごくよく聞く場合と、聞くふりしてほとんど聞いていない場合に分かれて来る。というか、多くの人の話は、後者のパターンになってしまっている気もする。耳にはじかれるのである。それは、自分の頭が凝り固まってしまっているせいなんだろうと思う。

今朝、Eテレで「日曜美術館」をやっていて、先日東京駅で見たモランディを取り上げていたもので、なんとなく見ていた。何人かがモランディの芸術について意見を述べていて、大体の人の話は例によって私の耳を素通りしていたのだが、1人、言葉の一つ一つが、驚くほどすっきりと耳に入ってくる人がいた。

洋画家の入江観さんという人だった。

一瞬で、この人の言葉、好きだなと思った。家事をしながら見ていたんだけど、途中から家事そっちのけで、最後までみてしまった。番組の後、早速ググってみた。あまり情報はないけれど、講演のテープ起こしがあったので、読んでみた。

https://www.library.city.suginami.tokyo.jp/daigakutosho/pdf/katsudo_h19.pdf

はあー。素敵。こういう人の言葉の良さってなんと表現すればいいだろう。

素直で、まっすぐで、純粋。自分を誇示も卑下もせず、飾りも傷つけもしないまったく無加工で無造作な言葉。言葉の裏には大きな広がりと奥行きがある。抜けるような空だ。

誰もがこんな言葉を持てるわけではない。それはどういう人生を生きてきたかに密接につながっている。小さい頃から自分の好きなものが明確で、それを生涯追い続け、仕事にもしてしまった人には、こういう言葉を持つ人がいる。入江さんもそうなのだろう。

私が数年前に働いていた研究所の研究員の先生にも、同じような人がいた。気象学が専門で、その分野では世界的に有名な人だった。入江さんとよく似た、明るい、ほがらかな顔の人で、やはり、まっすぐで人の心に届く言葉を持っていた。おそろしく頭はいいのだろうが、頭のよさより前に、素直さ、明るさ、温かさがその人を覆っている。

そういう人と話していると、ご本人はもう70歳とか、80歳に手が届くかという頃ではあるのだけれど、少年と話しているような気になってくる。小さい頃空の雲を見るのが好きだった少年が、雲がどのように出来るのかを知り、やがて気象学へ進むようになった。高度に学術的なことが理解でき、自ら新しい理論を提唱できるくらいそれを自分のものとした後も、やはり雲を見上げるのが好きだっただけの少年が、その人の中に生きている。未知なるものへの憧れ。何かを追い続ける人の瞳には濁りがない。

私もそういうものになりたいと思う。

入江さんの講演で、

「人類で一番最初に絵を描いた人のことを考えてみると…アルタミラとかラスコーとか、約3万年前のものが残っていますが、その前に描いた人がいるかも知れない。残っていないだけで。だけど何故絵を描いたのか、絵の具や美術館が美術学校なんてありません、『美術』という言葉もない、だけど何だか知らない、描かずにいられないという気持ちが起きて手が勝手に動いた」

というような話があるんですが、まあこういう言い方はよくされて、すごく斬新というほどでもないけれども、入江さんのような才能と人間性のある人が、実感としてこれを言うと、なんだか泣けるくらい沁みてしまう。今、そこで話している入江さんと、太古の、名前も知らない、本能に導かれて地面だか壁面だかに絵を描いている人が、ぴったりリンクして、その大昔の誰かの声を、入江さんが運んでいるのだと思えてしまう。

そういう人の澄み切った言葉は、いつまでも聞いていたいという気持ちにさせる。