ビッグイシュー 往復書簡 『ひきこもり社会論』

 The Big Issueはロンドンで知っていたが、日本語版もあると知って感心した。
立ち上げにアニタロディックが関わったとか、私にはなにげに気になる存在。

関係ないけど、アニタはいつかこのビッグイシューのインタビューで語っていたとおり、ホップ・ステップ・ジャンプでお墓に飛び込んだよなぁ。ほんとにカッコいい生き方だったと思う。

さて、日本語版でつい先日まで「ひきこもり社会論」という連載をやっていた。
精神科医をしている上山和樹さんと、ひきこもり経験者の斎藤環さんが往復書簡という形でひきこもりについて語るという趣向だった。
私はたまたまきっかけとなった二人の対談を読んでいた。
対談の時には2人はとても意気投合して、熱く語っていた。その余韻から連載を始めることになったわけだけど、最初のうちはともかく、最近はかなり雲行きが怪しかった。
面と向って喋るわけじゃなく、往復書簡なので、時間が経過するほど温度差が生じやすいというのは誰にも分かることだ。
2人の意見は段々すれ違っていって、こないだ購入したビッグイシューで、片方の人から半ば喧嘩別れに近い終了宣言が出されていた。

私は編集部の姿勢に疑問を持ったのだが、なんでこの往復書簡が方向性を見失うままにさせておいたのかなぁということなのだ。って、実は何かをしていたのかも知れないけど、表面上、ただお互いの言い分をそのまま載せてただけ、って感じがする。
手紙というのは書いてから読まれるまでに時差があるというのが曲者で、しかも表情がないので誤解を受けやすいコミュニケーション方法だ。面談→電話→手紙の順で、真意というものは伝わり難くなると思う。編集部は連載の合間合間で、できるだけ2人が面会する機会を設けるということが必要だったのではないか。
それから、連載の後半はお互い専門的な話に入りすぎて、一般人がついていけなくなっていた。
あれでは紙面に載せる意味はない。二人が、二人だけに関心ある話で盛り上がってるだけだ。なんだか内容が高尚なのであれでいいように感じてしまうが、観客を意識していないという意味では合コンでひたすら内輪ネタ、みたいなのと変わりない。
ビッグイシューに載せるなら、ビッグイシューを読む人が分かるレベルの話をするべきだろう。
そして、それを促すのが編集部の仕事だろうと思う。
だから、二人を時々会わせることに加えて、できれば編集部の人が入り、
「すいません、お二人の話のここの部分はどういう意味なんですか?」
みたいに掘り下げて聞いてくれればよかった。もちろん、全部分かることはムリでも、2,3点でもそういう点を出せばずっと理解は進むし、二人だって一般の人間の分かってなさのレベルが把握できて、それ以降の連載内容を変えたかも知れないのだ。

編集部不在のような形で終わってしまった「ひきこもり社会論」が、とても残念だ。
そこまでの時間がなかったとか、人間が足りなかったとか、理由はいろいろあるのだろうが、それでも、限られた環境の中でも、まったく何もできなかったとも思えない。ようは工夫だ。
上山さんも斎藤さんも、最初は良い動機を持って始めたはずなのに、後味悪い終わりになったというのが、さびしい。