NHK『自閉症の君が教えてくれたこと』

www.nhk.or.jp

2014年のドキュメンタリーの続編。

自分は偶然それを見たのだがとても強い印象を受けたので、今回も楽しみにしていた。

ただ、今回はあまり良くなかった。東田直樹さんの周りの大人が、自分の思い込みだけで東田さんに接して空回りしてる、というのをただ見せられただけ・・・という印象だった。

多分それは、自分がひねくれて、心が狭くて、批判的すぎるからだと思うが、普通ガンにかかって人生に恐怖を感じるようになったという人が何か助言をもらいたいと思うなら、同じようにガンと闘っている人に聞くべきなんじゃないか。なんで自閉症の東田さんに話を聞きにいくんだろう。それは東田さんを私物化してるってことじゃないのかと感じてしまう。

ガンに限らず、ガンに代表される様々な困難を抱えている人代表として東田さんに会いに行ったのだ、ということかもしれないが、彼は悩める人のための総合クリニックではないし、名言吐きマシーンでもない。自分は東田さん自身が今何を考えているのか、知りたかったのだが。

だんだん、東田さんが何かご宣託を垂れて、周りの人間が「ははー」となってる茶番を見てる気がしてきた。人を上に見すぎるのは、下に見てるのと同じことで、Eテレの「バリバラ」が今年の24時間テレビに対して指摘したのと同じ、健常者の驕り高ぶりだと思う。

一番象徴的だと思ったのは、冒頭の、取材ディレクターとの会話。ガンにかかって、自分はもしかして母親や祖母よりも早く死ぬのかもしれない、命を繋いでいくことができなくなるかもしれないという不安に襲われた、とディレクターが言うのに対して、

「命は繋いでいくものじゃなく、一人一人で完結させるものだと思う。繋いで行かないといけないとしたら、繋げなくなった人はどうなるんだろう。繋げなくなったバトンを握りしめたまま、途方にくれたり泣いたりしているんだろうか、そう言うことを考えると僕はとても悲しくなってしまう」

と言ったこと。ディレクターは自分の病気のことばかり言っているのに対して、東田さんは会ったこともない、バトンを繋げない誰かのために心を痛めてさえいる。この違いはどうだろう。

とはいえ自分も以前、あのディレクターと同じ苦しみにぶつかったことがある。命のバトンを繋げないと思ったこと(自分の場合はガンではなくて、もっと軽い問題だったのかもしれないが)。だから、東田さんのあの言葉は胸にしみた。あの日の自分が東田さんに慰められていると感じたから。

しかしだからと言って、東田さんにもし会えたとしても、その当時の悩みをいちいち語って聞かせようとは思わない。それは自分の問題でしかないからだ。東田さんが自分の自閉症を、自分だけで抱えて生きているように、自分の問題は自分だけで抱えて行く必要があるのではないか。

それよりも、彼がこの先一人の作家として生きようとしている、そのことについて悩みとか希望があるならそっちを聞いてみたかった。そういう視点がごく限られていたのは残念だ。

歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』@国立劇場

www.ntj.jac.go.jp

歌舞伎を見に行った。

歌舞伎はたぶん、生まれて初めて行った。

上演時間が長いので、なかなか手が出なかったが、国立劇場で12月に忠臣蔵をやると聞いて、雰囲気で申し込んでしまった。12月に忠臣蔵。大晦日に第九というほどのおあつらえむきだ。


今回の趣向は、仮名手本忠臣蔵の全段を3ヶ月かけてすべて上演するというもので、10月に第一部、11月に第二部、12月に第三部をやっている。だから、自分が見たのは最後の3分の1、第八段から十一段までだ。どうせだから討ち入りのシーンが入っている部分を見たかったのだ。
ただ、実際には仇討ちに関係ない部分も楽しめた。せっかくなので、サイドストーリー的な部分で印象に残ったことを書こうと思う。

第八段から九段で、内蔵助の息子と夫婦にはるはずだった娘が、浅野家お家断絶で縁談が棚上げとなってしまったのを悲しんで、母親とふたり、鎌倉から、大石家が隠れ住む京都山科まで旅をして会いにくるエピソードが描かれる。


しかし大石家では、仇討ちの暁には切腹が待っているだけの息子とまだうら若い娘を添わせて、すぐに未亡人にしてしまうのは忍びないということで、あれこれと理屈をつけて断ろうとする。


娘の父親、梶川与惣兵衛は、実は松の廊下で切りかかった内匠頭を制止した人物。ある意味、彼が止めてしまったばっかりに、内匠頭は吉良を討ち取ることができず、いたずらに切腹させられる羽目になったともいえるので、結婚させてほしければ与惣兵衛の首をもってこいという。ただ、これは本気ではなく、娘を諦めさせてやりたいばかりに無理難題を言っているだけなのである。


仇討ちの計画を全く知らない母娘は、ただ憎まれて断られたと絶望し、娘は結婚できないなら生きる甲斐もないと、また母親は帰って父親にあわす顔がないといって心中を図ろうとする。
そこへ、実はずっと後をつけてきていた与惣兵衛が現れる。与惣兵衛は悪意をむき出しに、遊興にふけっているだけの大石内蔵助を腑抜けであると罵倒する。そして、激昂した内蔵助の息子の手にかかって、重症を負う。
苦しい呼吸の下から、与惣兵衛は、松の廊下で思わず内匠頭を制止してしまったことをずっと後悔していたと告げる。そして、本来なら忠義のために捨てるはずのこの命をいま差し出すから、それに免じて娘の思いをどうかかなえてやってほしいと懇願して息絶える。



昔の日本の価値観が、てんこ盛りに詰まったストーリーだ。素直にいいなと思う部分と、正直引くなと思う部分がないまぜなので一言で語れないが、少なくとも、昔の日本の価値観がよく表されていることには間違いない。
たとえば許婚の男を追って、娘が鎌倉から京都まで徒歩でやってくるくだり。若い娘が一途な思いで一生懸命やってることだから、可憐といえば可憐だけれど、重いといえば重い。まあ重いなんて言ってる時点で、自分に歌舞伎の世界を生きる資格はないのだろうが。

また、自害だの切腹だので人がすぐに死ぬ。今の時代から見ればそんなに命を粗末にしなくても、というところだけれど、この時代は死ぬということが実際今より身近だったんだろう。流行り病や戦やらで、わりと簡単に死んでいたのだろうし、あちこちで切腹してれば、そういうことが自分に起こりうるという感覚も日々培われていただろう。今の時代はむしろ日常生活から死の影を排除しすぎてて、それでもいずれ誰にも訪れる死を、どのように位置づけるか見失っている感があるくらいだから、この時代の感覚は、ある意味健全なのかもしれない。(そんなことを真面目に考えている自分は、やっぱり歌舞伎向きじゃないのか・・・

与惣兵衛が息絶えるシーンは見所のひとつで、客席も盛り上がったが、この役を演じていたのが有名な松本幸四郎。やっぱりうまい。もうほんとにそんな年なのかそれとも作ってるのか分からないが、かなり声がしゃがれてて、せりふがクリアに聞き取れなかったりもしたけど(ビギナーなもので)、それでも一言で万感の思いを伝える力があると思った。自分としては、一番心に残った場面である。


仇討ちの場面はクライマックスなので当然派手だし、立ち回りもあるのだけど、意外とあっさりと終わった。歌舞伎と一口に言ってもいろいろあるのかも知れないが、忠臣蔵で言えば、全編通して定期的に山がきて、クライマックスも平均よりちょい高めの山、くらいのイメージなのかと思う。膨大な長さの演劇なのだから、さぞかし最後にカタルシスが来るんだろうと思っていたふしもあって、期待値が大きすぎただけなのかも知れないが。

しかし、全部演じたら十何時間もかかる演目なら、観客が最初から最後まで集中して見ることは期待してないはずで、元々、要所要所に盛り上がりが来て、好きなところだけ見てもいい、というシステムになっていたのかなと思う。インドネシアのワヤン演劇なども、一晩中だらだらと続けて、観客は食べたり飲んだり、途中寝たりしながら観ると聞いたことがあるが、それに近いかも知れない。ストーリーも予め知っていることが前提で、自分の好みの場面が来たら「いや~、やっぱいいな~」と思いながら見るとか、そういう楽しみ方かなと思う。非常にアジア的だ。



自分は西洋演劇の、だいたい3時間程度、ストーリーはクライマックスに向けて集約されていって最後にオーケストラがジャンジャンと盛り上げてカタルシス、というタイプに慣れているので、今回、緩慢なせりふ回しに浄瑠璃のひたすらシンプルな音楽で、休憩を入れて5時間の長丁場はくたびれてしまって、最後のあたりは早く終われと思ってしまった。

ただ、こうやって考えてみると歌舞伎の楽しみ方というのはそれなりにありそうで、実際、来年も忠臣蔵をどこかでやったら、また見てみたいなという気がしている。繰り返し見ることで、さらに楽しめるのかなと思う。

国立劇場に行く度いつも思うのだが、扉の内側に入った瞬間、外界から断絶された別天地に入った感じがする。この空間では別の時間が動いていて、演じている人々すべて、そして劇場内で働いている人たちすべてが、この日本の古い芸能をライブで生かし続けているんだという気がすごくする。軽薄な自分らが過去や伝統を忘れて、目先の忙しい毎日に埋没していても、この場所では古き日本をしっかりと守り伝えている人がいるんだ、と思うと不思議な安心感があって、落ち着くし、また来たくなる。

今年は国立劇場の小劇場で、文楽忠臣蔵もやっているらしい。
文楽もそのうち、一度見てみようと思う。



 

(注)ちなみに、登場人物の名前は、ここでは理解のために史実に基づいた名前にしているが、実際には大石内蔵助は「由良之助」など、微妙に全員の名前を変えてある。

『マダム・フローレンス!夢見るふたり』

 

マダム・フローレンス!  夢見るふたり [DVD]

マダム・フローレンス! 夢見るふたり [DVD]

 

 

久しぶりに映画を見た。

頼りにしているYahoo!映画のレビューではあんまり評価高くなかったので、それほど期待しなかったけど、これは良かった。しみじみと。

評価高くない人に多い意見は、シンクレア(夫)がフローレンス(資産家でオンチの奥さん)をそこまでして支える理由が分からない、というもの。
これはその通りだと思う。そこは細かく説明してない。なんなら二人がなぜ籍を入れてないのかもよく分からない。だから、二人の関係性に共感できるかどうかは、観る人が個人的に似たような経験をしたことがあるか、または性格的にたまたま共感できるか、にかかっているようなところがある。

自分は幸い、すんなり入ることができた。これは、人によるとしか言えない。

大感動とか、強く印象に残るようなものは何もない。そういう意味では、メリル・ストリープの演技がちょっともったいなくもない。あんなに歌が上手いのに、下手な歌い手の役までこなせるなんて、なんてこった、隙がなさすぎるぜメリル・ストリープ!(笑)

でも二人の間の優しい感情にしみじみと泣けたのだ。フローレンスは取り返しのつかない悲しみから逃げ切ることもできないまま、どこか手放しの、あけすけな生命力によって生きている。そのバランスの悪い生に、シンクレアという男は吊り込まれてしまう運命を持っているのだと思う。そういう男を演じるのにヒュー・グラントという俳優はうってつけだ。この人も、何かバランスの悪さを抱えて生きている気がするから。

金持ちのじいさんと結婚してた金髪のねーちゃんは良かったな。シンクレアのアパートでオールして、翌朝も妙に溶け込んでたし、あそこでシンクレアの愛人も見て、色々感じたんじゃないかな。そして、フローレンスのロックな生き方にどこかで共感したんだと思う。ああいうねーちゃんは粗野だが爽快で、かなり正しい直感を持っている。

ああいうタイプの人間がいると人生はめっぽう愉快になるのだが、最近は少なくなったよね。

カレル・チャペック『ひとつのポケットから出た話』

 

ひとつのポケットから出た話 (ベスト版 文学のおくりもの)

ひとつのポケットから出た話 (ベスト版 文学のおくりもの)

 

 

金曜の夜の図書館で、カレル・チャペックって、どっかで聞いたな、なんとなく美味しそうな名前だなと思って借りたけど、よく考えたら同じ名前の紅茶の店がある。フレーバーティを飲んだことがあって、だからかと思った。

これはいい本だった。とか言いつつ、延長しまくって、返却まで1ヶ月以上かかったけど。ページを繰るのももどかしい、みたいな本ではない。後、一話読み終わるたびに余韻に浸りたくなって、一気に何話も読めない。で、遅くなる。

短編集で、一応、事件仕立ての話が多いので、ミステリーといえばミステリー。でも推理物ではない。

人が死んだり警部が出てきたりするけれど、作品のテーマは人の人間性。矛盾とかすれ違いとか、固定観念とか。それが難しい言葉じゃなくて、あくまで日常生活を超えない範囲の設定と文章で描かれる。

今の時代でも普通に通用するんだよなあ。舞台はあくまで1920年代のチェコで、出てくるのもチェコ人なら、あちこち出てくる地名もみんなチェコ

だけど人間性というのは、普遍のテーマなんだろう。
いちいち、読むたび納得するのだ。普段人ってこういうものだなと思ってる、それとおんなじ視点の作品に出会うと、急に明かりで照らされたみたいにハッとなってしまう。

たとえばこんな話がある。

若い男女がリゾート地で、ある警部とたまたま同じテーブルにつく。女が不意に落とした靴屋のレシートがきっかけで、警部は2人に、同じような何気ないレシートが手がかりになって解決したある事件の話を語って聞かせる。

それは地方から出てきた貧しい女が、愛人に裏切られて殺された哀れな事件で、その女が死んだときポケットに入れていたレシートがなかったら、誰も真相を知りえなかった。警部は向かいに座る若い2人に向かって、真面目な話、たかがレシートと思って捨ててしまわず、何でも保存しておくにこしたことはないと話す。

男はちょっとした面白い話を聞いたという程度で、すぐ別のことに興味を移してしまうが、女のほうは深く感じ入った表情で、男に見えないように、そっと自分のレシートを捨てる。それに気付いた警部は、少し悲しそうに、でも微笑んでそれを見守る。

このあらすじを聞いて、「だから何なんだ」と思う人は、この本は向かない。ああ分かる、と思う人は、読んでみることを薦める。

たくさんの人に読んでほしいと思うけど、今の人にウケる感じじゃないよなあ。
それに、いまどき、1920年代にチェコ人が書いた本なんて普段目にするチャンスがないし、新しい本は無限に出版され続けていて、今後ますます隅においやられてしまうのかもしれない。こんなにしみじみ心にしみる本なのに、これから100年後にはもう残ってないかもしれない。そう思うとさびしいな。

挿絵はチャペックのお兄さんの手によるそうだ。ヘタウマ風の絵だけど、味がある。昔の穏やかな時代、だけど別の面では死がもっと身近だった時代に、こういうシンプルな線でシンプルな絵が描けたんだなあ。

「透視術師」「足あと」「最後の審判」「仮釈放者」などが特に心に残った。青い花の話は、そうでもなかったかな。

『サプリ』おかざき真里

 

サプリ 8巻 (FEEL COMICS)

サプリ 8巻 (FEEL COMICS)

 

 8巻が重要な展開を含んでいるので、引用します。物語は10巻で簡潔です。

 おかざき真里さんは、ちょっと感性が違うなと思ってじっくり読んだことがなかった。画面に花や魚やリボンや水玉が必然性もよく分からないまま(作者的にはあるんだろうけど)に飛び散るさまが、華麗で妖艶で、さすが美大出という感じで、田舎のオタク少女だった私と本質的に相容れず。

でも、「サプリ」読んでみたら面白かった。

何より、ミナミのような「ほんとの意味で」強い女性が最後に幸せを手に入れられたラストシーンにほっとした。力をもらえた気がする。私もがんばろっと。

働く女子の大変さというのは、感性が違っても、土俵が違っても、共通する部分がある。おかざき真里のキャラクターが同じ職場になったら、プライベートでつるむことはないだろうけど、仕事は信頼して一緒にやれそうだと思う。

7巻まではタラタラ読んでいたんだけど、8巻でぎょっとした。それから最終巻までは一気に持っていかれた。独特のあの湿気というか生臭さというか、そういうものを感じさせるタッチと相まって、あの展開は心にささった。

ただほかの人の感想読んでると、みんな歯切れがわるいね。『働きマン』はいいけど、こっちは、みたいな。ちょっと分かる気もする。

なんか、読み手の気持ちの、変なとこを引き出してしまう作家さんなのかも知れない。

そらを見る子ども

年を取ると、人の話も、すごくよく聞く場合と、聞くふりしてほとんど聞いていない場合に分かれて来る。というか、多くの人の話は、後者のパターンになってしまっている気もする。耳にはじかれるのである。それは、自分の頭が凝り固まってしまっているせいなんだろうと思う。

今朝、Eテレで「日曜美術館」をやっていて、先日東京駅で見たモランディを取り上げていたもので、なんとなく見ていた。何人かがモランディの芸術について意見を述べていて、大体の人の話は例によって私の耳を素通りしていたのだが、1人、言葉の一つ一つが、驚くほどすっきりと耳に入ってくる人がいた。

洋画家の入江観さんという人だった。

一瞬で、この人の言葉、好きだなと思った。家事をしながら見ていたんだけど、途中から家事そっちのけで、最後までみてしまった。番組の後、早速ググってみた。あまり情報はないけれど、講演のテープ起こしがあったので、読んでみた。

https://www.library.city.suginami.tokyo.jp/daigakutosho/pdf/katsudo_h19.pdf

はあー。素敵。こういう人の言葉の良さってなんと表現すればいいだろう。

素直で、まっすぐで、純粋。自分を誇示も卑下もせず、飾りも傷つけもしないまったく無加工で無造作な言葉。言葉の裏には大きな広がりと奥行きがある。抜けるような空だ。

誰もがこんな言葉を持てるわけではない。それはどういう人生を生きてきたかに密接につながっている。小さい頃から自分の好きなものが明確で、それを生涯追い続け、仕事にもしてしまった人には、こういう言葉を持つ人がいる。入江さんもそうなのだろう。

私が数年前に働いていた研究所の研究員の先生にも、同じような人がいた。気象学が専門で、その分野では世界的に有名な人だった。入江さんとよく似た、明るい、ほがらかな顔の人で、やはり、まっすぐで人の心に届く言葉を持っていた。おそろしく頭はいいのだろうが、頭のよさより前に、素直さ、明るさ、温かさがその人を覆っている。

そういう人と話していると、ご本人はもう70歳とか、80歳に手が届くかという頃ではあるのだけれど、少年と話しているような気になってくる。小さい頃空の雲を見るのが好きだった少年が、雲がどのように出来るのかを知り、やがて気象学へ進むようになった。高度に学術的なことが理解でき、自ら新しい理論を提唱できるくらいそれを自分のものとした後も、やはり雲を見上げるのが好きだっただけの少年が、その人の中に生きている。未知なるものへの憧れ。何かを追い続ける人の瞳には濁りがない。

私もそういうものになりたいと思う。

入江さんの講演で、

「人類で一番最初に絵を描いた人のことを考えてみると…アルタミラとかラスコーとか、約3万年前のものが残っていますが、その前に描いた人がいるかも知れない。残っていないだけで。だけど何故絵を描いたのか、絵の具や美術館が美術学校なんてありません、『美術』という言葉もない、だけど何だか知らない、描かずにいられないという気持ちが起きて手が勝手に動いた」

というような話があるんですが、まあこういう言い方はよくされて、すごく斬新というほどでもないけれども、入江さんのような才能と人間性のある人が、実感としてこれを言うと、なんだか泣けるくらい沁みてしまう。今、そこで話している入江さんと、太古の、名前も知らない、本能に導かれて地面だか壁面だかに絵を描いている人が、ぴったりリンクして、その大昔の誰かの声を、入江さんが運んでいるのだと思えてしまう。

そういう人の澄み切った言葉は、いつまでも聞いていたいという気持ちにさせる。

かわいそうなあの子

世間というのは、ほんとに悪趣味なことをやらせるなと思った。

街ですれ違う分には、ごくフツーの人達に見えるのにね。

 

私がお菓子屋さんの店長で、あの子が買いに来たら、袋に甘いミルクチョコレートを一枚、オマケでそっと入れてあげる。

 

口に含んで、一瞬、おいしさのあまり苦しいことを忘れられるようにね。