『サプリ』おかざき真里

 

サプリ 8巻 (FEEL COMICS)

サプリ 8巻 (FEEL COMICS)

 

 8巻が重要な展開を含んでいるので、引用します。物語は10巻で簡潔です。

 おかざき真里さんは、ちょっと感性が違うなと思ってじっくり読んだことがなかった。画面に花や魚やリボンや水玉が必然性もよく分からないまま(作者的にはあるんだろうけど)に飛び散るさまが、華麗で妖艶で、さすが美大出という感じで、田舎のオタク少女だった私と本質的に相容れず。

でも、「サプリ」読んでみたら面白かった。

何より、ミナミのような「ほんとの意味で」強い女性が最後に幸せを手に入れられたラストシーンにほっとした。力をもらえた気がする。私もがんばろっと。

働く女子の大変さというのは、感性が違っても、土俵が違っても、共通する部分がある。おかざき真里のキャラクターが同じ職場になったら、プライベートでつるむことはないだろうけど、仕事は信頼して一緒にやれそうだと思う。

7巻まではタラタラ読んでいたんだけど、8巻でぎょっとした。それから最終巻までは一気に持っていかれた。独特のあの湿気というか生臭さというか、そういうものを感じさせるタッチと相まって、あの展開は心にささった。

ただほかの人の感想読んでると、みんな歯切れがわるいね。『働きマン』はいいけど、こっちは、みたいな。ちょっと分かる気もする。

なんか、読み手の気持ちの、変なとこを引き出してしまう作家さんなのかも知れない。

そらを見る子ども

年を取ると、人の話も、すごくよく聞く場合と、聞くふりしてほとんど聞いていない場合に分かれて来る。というか、多くの人の話は、後者のパターンになってしまっている気もする。耳にはじかれるのである。それは、自分の頭が凝り固まってしまっているせいなんだろうと思う。

今朝、Eテレで「日曜美術館」をやっていて、先日東京駅で見たモランディを取り上げていたもので、なんとなく見ていた。何人かがモランディの芸術について意見を述べていて、大体の人の話は例によって私の耳を素通りしていたのだが、1人、言葉の一つ一つが、驚くほどすっきりと耳に入ってくる人がいた。

洋画家の入江観さんという人だった。

一瞬で、この人の言葉、好きだなと思った。家事をしながら見ていたんだけど、途中から家事そっちのけで、最後までみてしまった。番組の後、早速ググってみた。あまり情報はないけれど、講演のテープ起こしがあったので、読んでみた。

https://www.library.city.suginami.tokyo.jp/daigakutosho/pdf/katsudo_h19.pdf

はあー。素敵。こういう人の言葉の良さってなんと表現すればいいだろう。

素直で、まっすぐで、純粋。自分を誇示も卑下もせず、飾りも傷つけもしないまったく無加工で無造作な言葉。言葉の裏には大きな広がりと奥行きがある。抜けるような空だ。

誰もがこんな言葉を持てるわけではない。それはどういう人生を生きてきたかに密接につながっている。小さい頃から自分の好きなものが明確で、それを生涯追い続け、仕事にもしてしまった人には、こういう言葉を持つ人がいる。入江さんもそうなのだろう。

私が数年前に働いていた研究所の研究員の先生にも、同じような人がいた。気象学が専門で、その分野では世界的に有名な人だった。入江さんとよく似た、明るい、ほがらかな顔の人で、やはり、まっすぐで人の心に届く言葉を持っていた。おそろしく頭はいいのだろうが、頭のよさより前に、素直さ、明るさ、温かさがその人を覆っている。

そういう人と話していると、ご本人はもう70歳とか、80歳に手が届くかという頃ではあるのだけれど、少年と話しているような気になってくる。小さい頃空の雲を見るのが好きだった少年が、雲がどのように出来るのかを知り、やがて気象学へ進むようになった。高度に学術的なことが理解でき、自ら新しい理論を提唱できるくらいそれを自分のものとした後も、やはり雲を見上げるのが好きだっただけの少年が、その人の中に生きている。未知なるものへの憧れ。何かを追い続ける人の瞳には濁りがない。

私もそういうものになりたいと思う。

入江さんの講演で、

「人類で一番最初に絵を描いた人のことを考えてみると…アルタミラとかラスコーとか、約3万年前のものが残っていますが、その前に描いた人がいるかも知れない。残っていないだけで。だけど何故絵を描いたのか、絵の具や美術館が美術学校なんてありません、『美術』という言葉もない、だけど何だか知らない、描かずにいられないという気持ちが起きて手が勝手に動いた」

というような話があるんですが、まあこういう言い方はよくされて、すごく斬新というほどでもないけれども、入江さんのような才能と人間性のある人が、実感としてこれを言うと、なんだか泣けるくらい沁みてしまう。今、そこで話している入江さんと、太古の、名前も知らない、本能に導かれて地面だか壁面だかに絵を描いている人が、ぴったりリンクして、その大昔の誰かの声を、入江さんが運んでいるのだと思えてしまう。

そういう人の澄み切った言葉は、いつまでも聞いていたいという気持ちにさせる。

かわいそうなあの子

世間というのは、ほんとに悪趣味なことをやらせるなと思った。

街ですれ違う分には、ごくフツーの人達に見えるのにね。

 

私がお菓子屋さんの店長で、あの子が買いに来たら、袋に甘いミルクチョコレートを一枚、オマケでそっと入れてあげる。

 

口に含んで、一瞬、おいしさのあまり苦しいことを忘れられるようにね。

『マイ・インターン』

 

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ノンストレスで見られるフィールグッドムービー。

途中までとても楽しめたけど、ちょっとうまく行き過ぎで最後の20分くらいはダレてしまったかも。特に、旦那さんが最後に帰ってくるのはちょっと出来過ぎで、この旦那さんまた浮気すんだろなと思ってしまった。仕事がよくできて会社でも評価されてて、自分でもそれが快かったような人を家事専門にしてしまうことの無理さは、女性でも男性でも同じ事だ。そこを見ないと、「結婚しているのに浮気はよくない」みたいなモラルだけでどうにかしようとしても、ほんとの意味で解決しない。

ロバート・デ・ニーロ演じるベンも、途中まですごく良かったのに、間違ったメールを削除するためにジュールス(アン・ハサウェイ)の実家に忍び込んだあたりから、何か違うぞ??という感じがしはじめて(あれは素直にお母さんに謝るべきじゃ?^^;)、後は最後の最後まで頼りになる良き人生の先輩、っていうステレオタイプから一切出ないので飽きてしまった。何か一つくらい、ジュールスを傷つけたりケンカしたりするような場面がないと、嘘っぽくなってしまう。なんだ、ただ女性が言ってほしいことを言うためだけに作られたキャラじゃないか、っていう気がしてしまって、生きている1人の男性として見られない。

サンフランシスコのホテルで夜中閉め出されて、部屋に戻って2人になった時に、いちいちジュールスが挑発するようなことを言うのも良くないと思った。「アナタのこと男として見てませんから」みたいなことを、いちいち態度で示す必要あるかな?自分を応援してくれてる人に対して失礼だよ。あそこでベンが怒るなりすればもうちょっとリアリティあったのに。

とはいえ、フィールグッドムービーですから。割り切って見ることができれば、楽しい映画だと思います。

でも、シニアインターンなんてすごいな。ほんとにあるのかしら。しらじらしい社会貢献、と言ってしまえばそれまでだけど、たまにはベンのような人も多分いるのだろうから、いい制度だと思う。私も70歳になったらやってみたい。

実験的な試みを支持する社会の空気がなければ成立しないよね。こういうのはアメリカの良さだろう。それに、ジュールスは社長でとてもワンマンなのに、そういう人に対して「専属のインターン付けましたよ、明日来ますよ、ってことでよろ」で済んじゃうのもすごいと思う。そこに目が行ったのは、私が普段仕事で大会社の社長達をみんなで崇め奉って、何をするにもバカみたいに時間がかかることに、イライラしてるからだと思うけど…。ジュールスも、「え!?なによそれ〜」とか言いながら、結局受け入れちゃってる。このスピード感と即応力。アメリカっぽくて好き。

『ウォルト・ディズニーの約束』

 

エマ・トンプソンが好きで、ディズニーアニメには思い入れがあんまりない、という人にはとってもおすすめ、つまり私(笑)

エマの出ている映画は、私にとってはどれもハズレがない。エマの選ぶ映画と、私の好きな映画のタイプが近いんじゃないかと思う。恐れ多いけど。エマ好きなのよねーとにかく。演技がうまいし、頭がいいし、あったかいし、ガサツを危うく免れるサバサバ感。そのへんのバランス感覚が。私がロンドンに住んでた頃、エマがウェスト・ハムステッドに住んでると聞いて何度か通ったよ^^;

この映画は、メアリー・ポピンズの作者でもある偏屈で無愛想な女性作家パメラが、ディズニーの説得に折れてアニメ化を承諾するまでの話なんだけど、メアリー・ポピンズ自体はこの映画のモチーフとしてそんなに重要視されてない。されてるのは、エマ演じるパメラがどのように心を閉ざしていて、どのようにそれを開きうるのか、ということ。優しいけど生活力のない父親を、主人公は幼い頃から愛していた。成長するに従って父親の不甲斐なさも分かってくるんだけど、父親自身、そんな自分が嫌で嫌で仕方ないという精神構造を、娘だからよく理解して、なんとか救おうと努力する。

でも結局、世界は彼女の希望にこたえてくれず、やがて彼女も世界と交渉することをやめてしまう。

彼女の中には、幼い日のままの少女が住んでいる。彼女はそれを守りたくて、ガチガチに鎧を着込んでいる。

トム・ハンクスウォルト・ディズニーがまたいい。ブルドーザー並に前向きで積極的なアメリカ人。だけど彼とて恵まれた人生だったわけではない。パメラと種類は違うけど、苦労に苦労を重ねた少年時代がある。けれども彼はたくましくそれを乗り越えて、今は多くの子供たちに愛や夢をもたらす英雄になった。苦労は前面に出さず、明るく、闊達な人柄。そういうサクセスストーリーと、あくまでプラス思考な感じも、アメリカらしくてとてもいい。

パメラも、ウォルトのそういう背景が分からないわけではない。ウォルトも、パメラの抑圧された心を理解している。それでも、2人は哲学が違って、メアリー・ポピンズをどう映画化するかで対立がとけない。

ウォルトがメアリー・ポピンズをフワフワしたミュージカル仕立てにしたいのは、パメラの気持ちを理解しないからではなく、そういう哀しみや割り切れなさを表に出すことを好まないからだ。でもパメラには、それは嘘と写ってしまう。

ウォルトは最終的に、パメラの言い分を無視して自分のやり方を通す。このあたりの非情さも、ウォルト・ディズニー・カンパニーを率いる大社長らしい、納得の判断だ。ぎりぎりまでは心を尽くして話し合いをする。でも、最後の決断の時に分かり合えていなかったら、それ以上は引きずらない。大勢の社員を抱えた身であってみれば、当然のことだと思う。ウォルトのこだわりは、大人としてのこだわりだし、パメラのこだわりは、少女のこだわりだった。だから負けてしまうことは、たぶんパメラも分かっていたんだろう。

最後、映画の試写を見て、パメラは涙を流す。その理由は説明されない。後世まで多くの人に愛された、その映画を見て、思わず素直に感動したのかも知れない。または、自分の意思をへし曲げてこんなものを作られてしまったという、悔恨の涙かもしれない。

私も試写のシーンで泣いてしまったんだけど、理由はよく分からない。
なんか映画がほんとにフワフワしてきれいで、みんな嘘みたいに楽しそうで、それでなんだか泣けたのだ。パメラは涙を流しながら、心で父親を呼んでいるような気がしてならなかった。そしてその涙は、あたたかい涙なのだと、私は思った。実際のところは、分からないけれど。

『アドルフ』コンスタン

 

アドルフ (岩波文庫)

アドルフ (岩波文庫)

 

 こういう、一つだけのテーマに絞って書いている短編はいいですね。印象が強く残るし、ストーリーと対話がしやすいというか。

表紙にいきなり
「これをしも恋愛小説と呼ぶべきであろうか」
と、古文体の大胆な投げかけが(笑)
表現が硬くて分かりにくいのですが、要するに告白して両思いになるまでの過程は書いてあるけどほんの前フリで、その後の、次第に情熱がしぼみ、しぼんだ後も情にからめとられて身動きが取れない人間の生態をつぶさに描くことがこの物語のテーマであるということだと思います。そのプロセスだけに注目して書かれた小説という意味では恋愛以外の題材はない小説なんですが、見て分かるように「いわゆる」恋愛小説ではない。ということで冒頭の「これをしも…」の大演説につながっていきます。

人はいろんな風に恋をして、いろんな風にそれを手に入れ、いろんな風にそれを飼いならしていく(棄ててしまうということをしないならば)と思うので、この主人公の心の動きに甚だしく著しくおびただしく共感する、という人もいるだろうと思います。もう愛情はないんだけど、その後のずるずるべったりがどうしても断ち切れないというパターンは今でもよくあるし。

ただ今と違うのは、女性が1人で生きていけない時代だから、こういう恋に振り回されてしまうと致命的になってしまうということと、男も騎士道精神の華やかな時代だけに、それに捕われて一生を棒にふってしまう可能性があるということ、なのかも。ページを繰りながら、同じ女として、こういう時代に生まれなくてよかったなぁとしみじみ思いました。自分の人生の手綱を自分で握れないなんて、そんな不自由な時代は嫌だわ。

ただ、エレオノールは何度か1人で生きて行ける富を持てるチャンスがあったのに、それを取らなかったので、時代のさだめというよりは、彼女自身の精神のあり方が、最終的に彼女の末路を決めたのかもしれません。アドルフにしても、エレオノールのことがあってもなくても、たぶん大した人間にはならなかったんだろうという気がする^^;

女性の自立が難しい時代にあっても、もっと粋な恋の貫き方があると思うのです、「椿姫」とか、「マノン・レスコー」とかは、読んでてもっと楽しかった。「アドルフ」は男も女も、ちょっと残念な感じが拭えず。そもそも、この二人の間にあったものは恋でも愛でもないような気がする。それだからこそ、すっぱり断ち切れずずるずる続いたんだと思う。最初から存在しなかったものの燃え殻を必死でかき集めようとしても、ないものはないんだから。でも、二人とも、無理矢理「ある」と言い張ってあそこまで行ってしまった。だから、ある意味、「なんだそりゃ」というツッコミひとつで終わる話でもあります。

だけどまあ、ああいう感情が世間が言う「愛」とか「恋」というものの味気ない正体なのだ、と信じて終わる人もいるんだろうな。

ラブ&ヘイトの作家

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

 

村上春樹は今では嫌いな作家だが、昔はずいぶん好きだった。「ノルウェイの森」をブームから5年後くらいに読んで大好きになって、それまでの作品は全部読んだし、その後もしばらくは新作を追いかけた。ハルキストの友達によれば、村上春樹はラブ&ヘイトの作家だそうだ。偏向している作家はみんなそうだと思うけど、私は自分の時間軸の中に村上作品へのラブ&ヘイトが共存している。

先日、自分の本棚を眺めていて、村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」を久しぶりに手に取った。嫌いになってから大半の村上作品は処分してしまったが、これと「ノルウェイの森」だけは今もそばにおいてある。この頃の村上春樹は面白かったよなあ、と思って、20年ぶりくらいに読んだ。手に取ったのは下巻だったのだが、読んだら懐かしさがよみがえって、上巻に戻って全部読んだ。

結構たのしかったので、その勢いで、amazonの中古で「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を取り寄せた。これも、初めて読んだときは圧倒されて、しばらく放心状態から抜けられなかったほどの作品だ。ストーリーはほとんど忘れてしまった今になってそんなこと言っても嘘っぽいけど、当時はとても好きだったはずだ。

でも、読んでみると、3分の2まではまさに「ページをめくるのももどかしいくらい」続きが気になって読み進めたんだけど、終わりが見えてくる頃になって急に色あせてしまった。

相変わらず、世界観はすごい。「私」の世界も「僕」の世界も、どちらも全くのフィクションでありながら、あそこまで細部にわたって描き出せるというのは並みの想像力じゃないと思う。それに、読み手を引き込む力もすごい。ぐいぐい引っ張り、有無を言わせず物語に引き込む力、筆力というのか文章構成というのか、最近の作家は誰もかなわないと思う。

でも今回読み返してみて、世界構築の緻密さには改めて感心したけれど、メッセージには迫力がないと感じた。 結局、主人公が無茶な運命を割り振られて、特に抵抗もせずに死んでいく(厳密には死ぬわけじゃないけど)話でしかない、と写ったからだ。

もちろん、抵抗してもどうにもならないほど絶対的な方向付けをされてしまっている運命ではある。若い頃の、頭でっかちの私は、そういう暴力的な方向付けに対して、反射的に反抗するのではなく、自分なりに納得し受け容れる、いわばそのような運命でも自分のものとする主人公のある意味での強さに惹かれたのではないかと思う。

でも今思うと、それは頭の回りすぎというものであって、やっぱりまっとうに反抗する精神のほうが実用的だし、私はそちらに共感する。 そう思うのはたぶん、今の私が内的世界ではなく現実世界に生きていて、他人との交渉を常に行わなければならない状態にあるからだと思う。村上作品というのは徹頭徹尾内的世界の話で、他者との交渉はなく、自分の内的世界に住む自分1と自分2の会話や、自分3と自分4との会話があるだけである。

しかし現実世界は自分と他者との合意事項を元に作り上げるものだ。 他者は入れ替わり立ち替わり、無限のように存在する。現実世界において、私たちは間断なく他者と関わり続け、その関わりの中で自分を見失わず、かつ検証し続けなければならない。そういう種類の厳しさは、村上作品には書かれていない。

それでも村上春樹の作品が、あくまで自分のことしか書かないなら、私は大人になってからも手にとって、たまに読んだかも知れないんだけど、「アンダーグラウンド」なんかで現実世界の出来事に手を出すようになって、嫌になってしまった。あの地下鉄の事件を、すぐさまやみくろと結びつけるような公私混同ぶりというか、が、私にはなんだか気に障った。村上が加齢と共に変質したんだと思っていたけど、今回「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読んで、あの頃のようにわくわくしなかったということは、村上が変わったのではなくて、私の問題なのかもしれないなと思った。